わたくしたちが神を信じるということは、この神へと向かって生きることが伴います。神さまはわたくしたちをご自身のもの、ご自分に仕える僕としてくださり、わたくしたちをこの主人のもとに生かしてくださいます。わたくしたちの名を呼んで僕とし、ご自身の前に立たせてくださるのです。
自分が自分の主人であることは、一見わたくしたちに都合の良いことですが、自分の手に負えない事態に遭うと、お手上げとなります。手に負えない病、人間関係の大きな破れ、自分との関係の破れ、そこで直面する絶望や死を、わたくしたちは自力で越えることができません。そしてまことに自分の主人であろうとするなら、越えられない責任をも負うことになります。しかしその責任をわたくしたちは果たせないのではないでしょうか。わたくしたちは自分が自分の主人であることから、自分で解くことはできないのです。そこにわたくしたちの限界があります。
立ち尽くすわたくしたちをなお慈しみ、ご自身のものとして新たに生かす神がおられます。自分に破綻したわたくしたちを、なお僕として買い取る主人がおられるのです。わたくしたちの造り主なる神さまは、わたくしたちをご自分の僕としてご自身の前に立たせてくださいます。その神さまの、心からの思いを、神さまは十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させて証してくださいました。
復活の出来事を通して神さまは、わたくしたちの命の責任を負うと宣言し、「あなたはわたしのものだ」と一人ひとりに言っておられます。神さまはご自身に仕える僕として、わたくしたちを新たに生かすのです。神のものとされたわたくしたちは、心を尽くしてわたくしたちに仕える神を知り、この方に従います。死から復活させられた主イエスの後に続き、神の御前に立ち上がらされ、永遠の命の希望へとつながれて生きるのです。