2016年11月20日日曜日

「我らの罪をも赦したまえ」マタイによる福音書18:21-35

わたくしたちが(かみ)(しん)じるということは、この(かみ)へと()かって()きることが(ともな)います。(かみ)さまはわたくしたちをご自身(じしん)のもの、ご自分(じぶん)(つか)える(しもべ)としてくださり、わたくしたちをこの主人(しゅじん)のもとに()かしてくださいます。わたくしたちの()()んで(しもべ)とし、ご自身(じしん)(まえ)()たせてくださるのです。
自分(じぶん)自分(じぶん)主人(しゅじん)であることは、(いっ)(けん)わたくしたちに都合(つごう)()いことですが、自分(じぶん)()()えない事態(じたい)()うと、お手上(てあ)げとなります。()()えない(やまい)人間関係(にんげんかんけい)(おお)きな(やぶ)れ、自分(じぶん)との関係(かんけい)(やぶ)れ、そこで直面(ちょくめん)する絶望(ぜつぼう)()を、わたくしたちは自力(じりき)()えることができません。そしてまことに()(ふん)主人(しゅじん)であろうとするなら、()えられない責任(せきにん)をも()うことになります。しかしその責任(せきにん)をわたくしたちは()たせないのではないでしょうか。わたくしたちは自分(じぶん)自分(じぶん)主人(しゅじん)であることから、自分(じぶん)()くことはできないのです。そこにわたくしたちの限界げんかいがあります。
()()くすわたくしたちをなお(いつく)しみ、ご自身(じしん)のものとして(あら)たに()かす(かみ)がおられます。自分(じぶん)破綻(はたん)したわたくしたちを、なお(しもべ)として()()主人(しゅじん)がおられるのです。わたくしたちの(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、わたくしたちをご自分(じぶん)(しもべ)としてご自身(じしん)(まえ)()たせてくださいます。その(かみ)さまの、(こころ)からの(おも)いを、(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から(ふっ)(かつ)させて(あかし)してくださいました。
復活(ふっかつ)出来事(できごと)(とお)して(かみ)さまは、わたくしたちの(いのち)責任(せきにん)()うと宣言(せんげん)し、「あなたはわたしのものだ」と一人ひとりに()っておられます。(かみ)さまはご自身(じしん)(つか)える(しもべ)として、わたくしたちを(あら)たに()かすのです。(かみ)のものとされたわたくしたちは、(こころ)()くしてわたくしたちに(つか)える(かみ)を知り、この(かた)(したが)います。()から復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスの(あと)(つづ)き、(かみ)御前(みまえ)()()がらされ、永遠(えいえん)(いのち)希望(きぼう)へとつながれて()きるのです。