主イエスは言います。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。主イエスは「求めるなら」と言い、「祈れ」とも「求めよ」とも言いません。わたくしたちは求めるのか。主イエスに問われます。
わたくしたちが心にかける兄弟が、まことに天の命へと向かうよう求め「天の父よ」と祈る。これは主イエスの支えがあってこそです。祈る者自身、「主がこのわたしを主のものとしてくださった」と確信を得てのことです。そして「主イエスがわたしさえも罪から救うのだから、あの兄弟をも、主イエスが神のものとしてくださる」と祈ります。その祈りに、主イエスが共にいます。主イエスこそが、迷い出た一匹の羊を最後まで諦めず、神のものとしてくださいます。
実に、一人ひとりが主に養われる神の民の一員として迎えられる背後に、この教会の祈りがあります。一人ひとりが密やかなとりなしのもと礼拝へ導かれます。そして「主がこの一人を見出した」と証言する二人または三人の口によって、洗礼を受けるよう勧められ、教会によって神の子として洗礼を受けます。わたくしたちが主の民として歩むのは、自分のために祈る兄弟がいるからです。主イエスはご自身の名によって集められたその者たちの中にいると言います。
この方は死に勝利した方です。十字架で死んだこのお方を、神さまは見放しませんでした。神さまはこの方を復活させ、この復活において神さまは、ご自分の民を罪から救うというご意志をあらわしました。この神の思い、主イエスの名によって集められたわたくしたちを神から引き離すものは、何一つない。この約束のもと、主イエスはわたくしたちを導き、神を礼拝する民として天の命へと向かって養ってくださるのです。