「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言う主イエスの言葉に、カナンの女はひれ伏して言います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。主イエスはご自身をただ一つの頼りとする異邦人の女へと、神の祝福が及ぶことを示します。女は、病で苦しむ娘を神が顧みてくださったと知ります。
神さまはアブラハムを召し出して言いました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:2,3)。
神さまがアブラハムを選んだのは、彼を祝福するためだけでなく、彼を通して全ての民が祝福に入るためでした。選ばれた者が、祝福の源として用いられるのです。
神さまは、未だ神を知らぬ者たち、神の声を聞けないでいる者たちのただ中にいるわたくしたちを、先んじて選びます。それはまずわたくしたちが神の祝福に入り、永遠の命を受け継ぐためにです。そして今日のわたくしたちへと神の祝福が届けられるため、神さまは教会という器、献げられる礼拝を、用いてくださいました。
そして、神さまがこれからなおご自身の祝福を及ぼすため、神さまは神を礼拝する民・教会を用いてくださいます。未だ神を知らぬ者が招かれる器、迎えられる器として、このわたしも用いてくださいます。
神さまは主イエスを復活させ、世の全ての民へと及ぼす祝福を示しました。そのみ業を告げ知らせ、わたくしたちを慈しんでやみません。造られたこの身の救い主として、わたくしたちを死から命へと生かし、神と共にある命へと生かします。わたくしたちが献げる礼拝を用いて、キリストの復活によって差し出された一つのパンに、共に与らせてくださるのです。