ファリサイ派の人たちは主イエスに言いました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか、食事の前に手を洗いません」。主イエスは、食事の前に手を洗いませんでした。それは、わたくしたちが神の前に汚れたままでもよい、というのではありません。むしろまことに、神の前に立つ道を行くよう、主イエスは求めます。それはこの方の後に従ってゆくことです。
ファリサイ派の人たちは昔の人の言い伝えを守ることに熱心でした。それはたとえ人間の戒めであったとしても、立派だと思わされます。ただ、このような行いが神の目には口先だけの物であり、神の心から遠く離れているのであれば、そこでは行いへのこだわりが、単に自分のための、自己正当化のためだということになってしまいかねません。
むしろまことに、神の前にわたくしたちが立ち上がらされるために、天の父の前にわたくしたちが生かされるために、天の父がこの「わたし」という木を植えてくださる必要があります。この「わたし」を、神が本当に喜んでいるというしるしを、神から受ける必要がわたくしたちにはあります。そのために、神さまは主イエス・キリストをわたくしたちに与え、この方を十字架の死から復活させることによって、証してくださいました。
神さまは、わたくしたちを、すべて抜き取られてしまう木として育てるのではありません。わたくしたちを愛し、神ご自身が植えた木としてわたくしたちを育ててくださいます。復活の主イエスに根ざし、死から命へと生かしてくださいます。これを神さまは喜びとしてわたくしたちへと差し出していることを、主イエスの復活によって示してくださったのです。主イエスはこの道をわたくしたちと共に歩んでくださいます。主イエスはわたくしたちを、天の父なる神さまが植えた木として、天の父の喜びへと立ち上がらせてくださるのです。