2016年9月4日日曜日

「天の父が植えた木」マタイによる福音書15:1-20

ファリサイ派(は)の人(ひと)たちは主(しゅ)イエスに言(い)いました。「なぜ、あなたの弟子(でし)たちは、昔(むかし)の人(ひと)の言(い)い伝(つた)えを破(やぶ)るのですか、食事(しょくじ)の前(まえ)に手(て)を洗(あら)いません」。主イエスは、食事(しょくじ)の前(まえ)に手(て)を洗(あら)いませんでした。それは、わたくしたちが神(かみ)の前(まえ)に汚(けが)れたままでもよい、というのではありません。むしろまことに、神(かみ)の前(まえ)に立(た)つ道(みち)を行(ゆ)くよう、主(しゅ)イエスは求(もと)めます。それはこの方(かた)の後(あと)に従(したが)ってゆくことです。
ファリサイ派(は)の人(ひと)たちは昔(むかし)の人(ひと)の言(い)い伝(つた)えを守(まも)ることに熱心(ねっしん)でした。それはたとえ人間(にんげん)の戒(いまし)めであったとしても、立派(りっぱ)だと思(おも)わされます。ただ、このような行(おこな)いが神(かみ)の目(め)には口先(くちさき)だけの物(もの)であり、神(かみ)の心(こころ)から遠(とお)く離(はな)れているのであれば、そこでは行(おこな)いへのこだわりが、単(たん)に自分(じぶん)のための、自己正当化(じこせいとうか)のためだということになってしまいかねません。
むしろまことに、神(かみ)の前(まえ)にわたくしたちが立(た)ち上(あ)がらされるために、天(てん)の父(ちち)の前(まえ)にわたくしたちが生(い)かされるために、天(てん)の父(ちち)がこの「わたし」という木(き)を植(う)えてくださる必要(ひつよう)があります。この「わたし」を、神(かみ)が本当(ほんとう)に喜(よろこ)んでいるというしるしを、神(かみ)から受(う)ける必要(ひつよう)がわたくしたちにはあります。そのために、神(かみ)さまは主(しゅ)イエス・キリストをわたくしたちに与(あた)え、この方(かた)を十字架(じゅうじか)の死(し)から復活(ふっかつ)させることによって、証(あかし)してくださいました。

神(かみ)さまは、わたくしたちを、すべて抜(ぬ)き取(と)られてしまう木(き)として育(そだ)てるのではありません。わたくしたちを愛(あい)し、神(かみ)ご自身(じしん)が植(う)えた木(き)としてわたくしたちを育(そだ)ててくださいます。復活(ふっかつ)の主(しゅ)イエスに根(ね)ざし、死(し)から命(いのち)へと生(い)かしてくださいます。これを神(かみ)さまは喜(よろこ)びとしてわたくしたちへと差(さ)し出(だ)していることを、主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)によって示(しめ)してくださったのです。主(しゅ)イエスはこの道(みち)をわたくしたちと共(とも)に歩(あゆ)んでくださいます。主(しゅ)イエスはわたくしたちを、天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまが植(う)えた木(き)として、天(てん)の父(ちち)の喜(よろこ)びへと立(た)ち上(あ)がらせてくださるのです。