主イエスは、一度すでに行ったことを、新たに行うお方です。主イエスは言います。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」。これは御自身の足元に横たえられた病人を、主イエスが三日もいやし続けるという状況にあったことを指します。主イエスはたえず癒し続けた。それは一つの流れのように続けられました。
同じ働きを繰り返すことによって、一つの流れが形作られていることが見えて参ります。そして、十字架の死と死からの復活へと至る、主イエスの足取りが大きな流れとして見えて参ります。この、主イエスの足取り、主イエスが働かれます大きな流れの中に、わたくしたちも置かれています。神さまは、十字架で死んだ主イエスを復活させることにより、わたくしたちへの絶えることのない慈しみを示し、この方の足取りに従うわたくしたちの道を、示してくださいました。
それは神さまが起こしてくださった大きな流れであるとともに、わたくしたち一人ひとりにとってまたとない、掛け替えのない神との交わりを伴うものでもあります。たとえば、主イエスが病む者を癒して差し上げた出来事は、繰り返し起こされたことです。そして男だけでも五千人を主イエスが与えたパンで満たしたように、主イエスは七つのパンと少しの魚で男だけでも四千人を満たします。
大きくみれば一つひとつの出来事は、一連の主イエスの働きという流れの中で起きていることです。ですが、癒された本人、空腹を満たされた本人にとっては、このときにしかない繰り返しえない経験です。たとえ、主イエスが他にも自分の病を癒してくれることが別の機会にあったとしても、再び食事を恵まれたとしても、それぞれが固有の、他にない出来事です。一つひとつが、固有の出会いなのです。これは何か、単に全体の流れの中で埋没しても良いかのような、他と異ならぬ当たり前の代物ではありません。