2016年9月18日日曜日

「あなたを慈しむ神」マタイによる福音書15:29-39

(しゅ)イエスは、一度(いちど)すでに(おこな)ったことを、(あら)たに(おこな)うお(かた)です。(しゅ)イエスは()います。「群衆(ぐんしゅう)がかわいそうだ。もう三日(みっか)もわたしと一緒(いっしょ)にいるのに、()(もの)がない」。これは御自身(ごじしん)足元(あしもと)(よこ)たえられた病人(びょうにん)を、(しゅ)イエスが三日(みっか)もいやし(つづ)けるという状況(じょうきょう)にあったことを()します。(しゅ)イエスはたえず(いや)(つづ)けた。それは(ひと)つの(なが)れのように(つづ)けられました。
(おな)(はたら)きを()(かえ)すことによって、(ひと)つの(なが)れが形作(かたちづく)られていることが()えて(まい)ります。そして、十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)へと(いた)る、(しゅ)イエスの(あし)()りが(おお)きな(なが)れとして()えて(まい)ります。この、(しゅ)イエスの足取(あしど)り、(しゅ)イエスが(はたら)かれます(おお)きな(なが)れの(なか)に、わたくしたちも()かれています。(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させることにより、わたくしたちへの()えることのない(いつく)しみを(しめ)し、この(かた)足取(あしど)りに(したが)うわたくしたちの(みち)を、(しめ)してくださいました。


それは(かみ)さまが()こしてくださった(おお)きな(なが)れであるとともに、わたくしたち一人(ひとり)ひとりにとってまたとない、()()えのない(かみ)との(まじ)わりを(とも)うものでもあります。たとえば、(しゅ)イエスが()(もの)(いや)して()()げた出来事(できごと)は、()(かえ)()こされたことです。そして(おとこ)だけでも五千人(ごせんにん)(しゅ)イエスが(あた)えたパンで()たしたように、(しゅ)イエスは(なな)つのパンと(すこ)しの(さかな)(おとこ)だけでも四千人(よんせんにん)()たします。

(おお)きくみれば(ひと)つひとつの出来事(できごと)は、一連(いちれん)(しゅ)イエスの(はたら)きという(なが)れの(なか)()きていることです。ですが、(いや)された本人(ほんにん)空腹(くうふく)()たされた本人(ほんにん)にとっては、このときにしかない()(かえ)しえない経験(けいけん)です。たとえ、(しゅ)イエスが(ほか)にも自分(じぶん)(やまい)(いや)してくれることが(べつ)機会(きかい)にあったとしても、(ふたた)(しょく)()(めぐ)まれたとしても、それぞれが固有(こゆう)の、(ほか)にない出来事(できごと)です。(ひと)つひとつが、固有(こゆう)出会(であ)いなのです。これは(なに)か、(たん)全体(ぜんたい)(なが)れの(なか)埋没(まいぼつ)しても()いかのような、(ほか)(こと)ならぬ()たり(まえ)代物(しろもの)ではありません。