わたくしたちは、およそ自分が追い込まれるまで、主イエスを信じ従おうとはしません。そう済ませられる別の選択肢を持っています。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という主イエスの言葉は、このわたくしたちに当てはまります。いつもと変わらぬ歩みをしているうちは、信仰が薄くても、主イエスに従わなくても、わたくしたちは構わないのです。わたくしたちは湖を渡るのに舟を用いるのであり、わざわざ水の上を歩きはしません。
ただその、いつもと変わらぬ歩みを取り去られる時があります。解けない苦しみを抱え、死に至る病を得る時です。自分たちの説明や理屈によっては解決を得ない苦しみを、わたくしたちも身に負います。薬を使っても、節制や苦行を重ねても、解決につながらないのです。自分が持てる選択肢を全て失って、そこでわたくしたちは諦める他ないのかもしれない。しかし諦められるのでしょうか。
頼みの綱が全て断ち切られた。そのところでなお、わたくしたちが絶望では終わらず、頼ることのできる方がいます。死を越えてご自身を示してくださった主イエスを頼りとする道があります。造り主なる神さまは、わたくしたちを絶望で終わらせるのではなく、なお神の前に新たに生きる道を備えておられます。
神さまは、十字架で死んだ御子イエスを死者の中から復活させ、造り主であるこの方が、全て望みを失ったわたくしたちを、なおご自身の支えのもとに新たに生かすことを明らかにしてくださいました。わたくしたちが死んでなお、新たに生かされる道を、神さまは御子の復活において据えてくださったのです。
神を信じ死を越えて歩む道は、わたくしたちにとって水の上を歩くようなものかもしれません。しかしわたくしたちの名を呼んでわたくしたちをご自身のもとへと招く主イエスは、わたくしたちを招く責任をも負い、この足元を支えてくださいます。