畑の麦の間に毒麦が現れたのを見た僕たちは、抜き取りに行くことを主人に申し出ます。しかし主人は言います。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」。
わたくしたちは死に至る病を患うことがあります。病巣が自分の体中に広がり、病巣を取り除くとすれば、それにより命をも絶ちかねない、深刻な病を患うことがあります。つまり、わたくしたちは、病気などなくて済ませられるのならそうしたいのですが、その病巣がわたくしたちの命を左右するところにまで及んでいるため、もはや取り除けない、ということがあります。そのような同胞を前にして、わたくしたちは立ちすくんでしまいます。
たとえこの世の悪がすべて取り除かれたとしても、この身に存在する、毒麦が取り除かれることこそ、わたくしたちには必要です。
わたくしたちは死ぬことによって何か単に苦しみから解かれ、無に帰して終わりではありません。十字架で死んだ主イエスを神さまは復活させました。この主イエスがわたくしたちを全ての支配から解き、終わることのない喜びへと立ち上がらせてくださいます。たとえ苦しみが覆い尽くしても、それによって死ななくてはならなかったとしても、このわたしと父なる神との関係が失われることはありません。主イエスの復活はそのことを証します。主イエスは言います。「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」。主イエスはわたくしたち一人ひとりを天の父なる神さまの前で輝かせてくださいます。父なる神はわたくしたちのために希望を据えたのであり、御子イエスによって証したこの希望へとむかって、聖霊によって導いてくださるのです。