2016年7月10日日曜日

「天の父の御心が満ちる」マタイによる福音書 12:43-50

モーセが初(はじ)めて神(かみ)の前(まえ)に立(た)たされた時(とき)、神(かみ)はご自身(じしん)を「わたしはある。わたしはあるという者(もの)だ」と言(い)い表(あらわ)しました(出エジプト3:14)。天(てん)地(ち)創造(そうぞう)の前(まえ)からある方(かた)、無(む)から有(ゆう)を造(つく)ることができる神(かみ)のご性質(せいしつ)を、そのように言(い)い表(あらわ)したのです。この神(かみ)の前(まえ)にあってモーセは、履物(はきもの)を脱(ぬ)ぐよう求(もと)められます。モーセは、自(みずか)らのすべてを捨(す)て去(さ)り、神(かみ)の前(まえ)にただ「わたし」として立(た)つことを求(もと)められたのです。天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまは、そのようにわたくしたちをご自身(じしん)の前(まえ)に迎(むか)えます。主(しゅ)イエスは、わたくしたちを導(みちび)き、すべてのものから断(た)ち切(き)り、ただ神(かみ)の前(まえ)にある「わたし」として、神(かみ)さまの前(まえ)に立(た)ち上(あ)がらせます。
それがわたくしたちと神(かみ)との、最後(さいご)の完成(かんせい)された関係(かんけい)であり、わたくしたちの希望(きぼう)です。わたくしたちはこの希望(きぼう)へと向(む)かって、神(かみ)を礼拝(れいはい)する民(たみ)の一員(いちいん)として招(まね)かれているのです。
主(しゅ)イエスは、何(なに)にも増(ま)してまず、天(てん)
の父(ちち)なる神(かみ)さまの声(こえ)にわたくしたちが聞(き)くことを求(もと)めます。そしてすべてを捨(す)て、この身(み)をすべて神(かみ)に献(ささ)げることを求(もと)めます。主(しゅ)イエスは弟子(でし)たちを指(さ)して「わたしの天(てん)の父(ちち)の御心(みこころ)を行(おこな)う人(ひと)」と言(い)いました。弟子(でし)たちは決(けっ)して完全(かんぜん)な者(もの)ではありません。しかし召(め)し出(だ)した者(もの)たちをそのように、主(しゅ)イエスは導(みちび)くのです。弟子(でし)たちが「御心(みこころ)を行(おこな)う」ということは言(い)い換(か)えれば、神(かみ)の御心(みこころ)がこの身(み)に満(み)ちるため、すべてこの身(み)を献(ささ)げることです。
主(しゅ)イエスご自身(じしん)も、十字架(じゅうじか)の死(し)を前(まえ)にして、父(ちち)なる神(かみ)の御心(みこころ)を問(と)いました。しかしそこで主(しゅ)イエスが得(え)たのは、自(みずか)らのすべてを十字架(じゅうじか)の死(し)をもって失(うしな)う、ということでした。けれども、この十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスに、天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまは御心(みこころ)を表(あらわ)してくださいました。主(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中(なか)から復(ふっ)活(かつ)させて、表(あらわ)してくださいました。神(かみ)さまは、死(し)の支配(しはい)をも打(う)ち破(やぶ)り、ご自(じ)身(しん)の前(まえ)にわたくしたちをも永遠(えいえん)に立(た)ち上(あ)がらせる父(ちち)の御心(みこころ)を、主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)に表(あらわ)してくださったのです。