モーセが初めて神の前に立たされた時、神はご自身を「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言い表しました(出エジプト3:14)。天地創造の前からある方、無から有を造ることができる神のご性質を、そのように言い表したのです。この神の前にあってモーセは、履物を脱ぐよう求められます。モーセは、自らのすべてを捨て去り、神の前にただ「わたし」として立つことを求められたのです。天の父なる神さまは、そのようにわたくしたちをご自身の前に迎えます。主イエスは、わたくしたちを導き、すべてのものから断ち切り、ただ神の前にある「わたし」として、神さまの前に立ち上がらせます。
それがわたくしたちと神との、最後の完成された関係であり、わたくしたちの希望です。わたくしたちはこの希望へと向かって、神を礼拝する民の一員として招かれているのです。
主イエスは、何にも増してまず、天
の父なる神さまの声にわたくしたちが聞くことを求めます。そしてすべてを捨て、この身をすべて神に献げることを求めます。主イエスは弟子たちを指して「わたしの天の父の御心を行う人」と言いました。弟子たちは決して完全な者ではありません。しかし召し出した者たちをそのように、主イエスは導くのです。弟子たちが「御心を行う」ということは言い換えれば、神の御心がこの身に満ちるため、すべてこの身を献げることです。
主イエスご自身も、十字架の死を前にして、父なる神の御心を問いました。しかしそこで主イエスが得たのは、自らのすべてを十字架の死をもって失う、ということでした。けれども、この十字架で死んだ主イエスに、天の父なる神さまは御心を表してくださいました。主イエスを死者の中から復活させて、表してくださいました。神さまは、死の支配をも打ち破り、ご自身の前にわたくしたちをも永遠に立ち上がらせる父の御心を、主イエスの復活に表してくださったのです。