2016年7月17日日曜日

「種を蒔く人」マタイによる福音書 13:1-23

つくぬしなるかみさま、てんちちなるかみさまは、つくられたわたくしたちへと御言みことたねきます。このたねに、わたくしたちをかすいのちがあります。このたねがわたくしたちをあらたにまれわらせます。ちちなるかみさまはこのたねを、しゅイエス・キリストをつたえることをとおして、わたくしたちにきます。
一方(いっぽう)(しゅ)イエスはわたくしたちに、(かた)られた言葉(ことば)との関係(かんけい)()います。(ちち)なる(かみ)さまが御子(みこ)イエスを()から(ふっ)(かつ)させたのは、この()らせを()くわたくしたちを、()から復活(ふっかつ)させるためです。御子(みこ)イエスの復活(ふっかつ)は、(ちち)なる(かみ)さまの、わたくしたちへの言葉(ことば)なのです。
また、聖書(せいしょ)言葉(ことば)がわたくしたちに()げられるのは、これによって(いのち)()、わたくしたちが(あら)たに()かされるためにです。聖書(せいしょ)は、自分(じぶん)(かた)られた(かみ)言葉(ことば)として()くことが大切(たいせつ)です。(しゅ)イエスはなお()(つづ)けるようわたくしたちに()います。「(みみ)のある(もの)()きなさい」。
ただ、(かみ)さまはわたくしたちに特別(とくべつ)(とき)用意(ようい)しており、(とき)(あた)えられてこそ、わたくしたちはその(こころ)()るという経験(けいけん)をします。度々(たびたび)()きながらどうも(わか)からなかったことを、ようやく「そうか」と気付(きづ)かされる。そこでわたくしたちも「(とき)(あた)えられた」と()ります。(とき)(あた)えられるまで、(かみ)(こころ)()められているのです。
すでに(とき)()たなら、いよいよ御言(みこと)()()いて(さと)ることを(かさ)ね、この()(とど)けられた(かみ)(こころ)をより(ふか)()ることが大切(たいせつ)です。(かみ)さまはわたくしたちのことを一点(いってん)(くも)りもなく()っているのであり、そのわたくしたちをお(すく)いになります。その(かみ)(わざ)がより(あき)らかになることで、わたくしたちも(かみ)との(まじ)わりを(ふか)めさせていただけるのです。そして一点(いってん)(くも)りもなく、(かみ)(こころ)()(もの)として()()がらされる()を、(しゅ)イエスはもたらします。その()には百倍(ひゃくばい)六十倍(ろくじゅうばい)三十倍(さんじゅうばい)()(むす)ぶ。(しゅ)イエスはわたくしたちを礼拝(れいはい)へと()(かえ)(まね)き、この(さいわ)いに(あずか)らせてくださいます。