造り主なる神さま、天の父なる神さまは、造られたわたくしたちへと御言葉の種を蒔きます。この種に、わたくしたちを生かす命があります。この種がわたくしたちを新たに生まれ変わらせます。父なる神さまはこの種を、主イエス・キリストを宣べ伝えることを通して、わたくしたちに蒔きます。
一方、主イエスはわたくしたちに、語られた言葉との関係を問います。父なる神さまが御子イエスを死から復活させたのは、この知らせを聞くわたくしたちを、死から復活させるためです。御子イエスの復活は、父なる神さまの、わたくしたちへの言葉なのです。
また、聖書の言葉がわたくしたちに告げられるのは、これによって命を得、わたくしたちが新たに生かされるためにです。聖書は、自分に語られた神の言葉として聞くことが大切です。主イエスはなお聞き続けるようわたくしたちに言います。「耳のある者は聞きなさい」。
ただ、神さまはわたくしたちに特別な時を用意しており、時が与えられてこそ、わたくしたちはその心を知るという経験をします。度々聞きながらどうも分からなかったことを、ようやく「そうか」と気付かされる。そこでわたくしたちも「時を与えられた」と知ります。時が与えられるまで、神の心は秘められているのです。
すでに時が来たなら、いよいよ御言葉に聞いて悟ることを重ね、この身に届けられた神の心をより深く知ることが大切です。神さまはわたくしたちのことを一点の曇りもなく知っているのであり、そのわたくしたちをお救いになります。その神の業がより明らかになることで、わたくしたちも神との交わりを深めさせていただけるのです。そして一点の曇りもなく、神の心を知る者として立ち上がらされる日を、主イエスはもたらします。その日には百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ。主イエスはわたくしたちを礼拝へと繰り返し招き、この幸いに与らせてくださいます。