主イエスは神の国をたとえて言います。「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる」。
ここで主イエスが言いたいのは、わたくしたちが悪いものなのか、良いものなのかを問うことではありません。神の前に正しい者なのか悪い者なのかを振り分けることではない。むしろ、わたくしたちが抱えますどうしようもない悪や絶望を、神は打ち破り、取り去ってしまう。神はわたくしたちを正しい者、良しとされた者として、ご自身の前に立ち上がらす日を来たらせます。この終わりの日へと主イエスはわたくしたちを導きます。「わたしの子よ」と呼びかける天の父がおられ、この方がわたくしたちへの支配を全うし、ご自身のものとして御前に立ち上がらせてくださるのです。
わたくしたちは、自らの内にも外にも、どうすることもできない絶望を抱え、死に至る病を抱えます。この自分をわたくしたちは自分で打ち破ることができず、自分の悪しきものを追い出すことができず、むしろそれらの奴隷状態に陥ってしまいます。
しかし、主イエスはわたくしたちの絶望を打ち破って新たに生かし、希望の道を開いてくださいます。もはや罪も死も呪いも失せ果て、「まことの、あるべき、わたし」へと至る道を主イエスは導いてくださるのです。そのため、神さまは御子イエスを十字架の死から復活させました。
それは、神の国のご支配が満ち充ちた姿でありました。もはや死ぬことのない、死に勝利した復活の命を、神さまはわたくしたちに示してくださいました。神さまは、死すべきわたくしたちを、死を越えて御前に立ち上がらす、他にはない声を響かせてくださったのです。主イエス・キリストにあってわたくしたちは、死を越える命の道を備えられているのです。