「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」そう叫ぶ指導者の家へと主イエスはたどり着きました。そこは、娘が死んだという、死の香りで満ちていました。笛を吹いて娘の死を知らせる者らがおり、娘の死のことで騒ぐ群衆がいます。この彼らを、主イエスは家から追い払います。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と。そこは、主イエスによって命が満ちる家だからです。一方、人々はあざ笑います。少女は死んだのだ。この事実をくつがえせる訳がない。死は、わたくしたちにとってけっして変わらぬものとして、覆い被さっている。
ところが主イエスにおいて死は、眠りに等しい。主イエスは死んでしまった少女を死から命へと生かします。主イエスが少女の手を取ると、少女は起きあがりました。
たしかに少女は、また死ぬ命を得たにすぎません。しかしそこに主イエスは、わたくしたちを死から命へと永遠の命に生かす神の摂理を示します。死から復活させられたご自身の香りを満たします。わたくしたちが、わたくしたちを死から命へと生かす神を知らず、死んで終わりの命を生きるほかないという考えで満ちたままでいることについて、もはや主イエスは黙っておられないのです。
主イエス・キリストにあって死は、単に眠りにすぎない。この主キリストによって、この方に連なるわたくしたちも眠りから起こされる。この神の摂理を、神さまは十字架で死んだ主イエスを復活させて明らかにしました。親しい者の死について、また、自らの死について叫ぶほかない、わたくしたちが絶望のただ中にあって、しかし叫ぶわたしの声を聞く主イエス・キリストがいます。叫ぶ者の声を聞き、立ち上がらされ、求める者に従う主イエス・キリストがわたくしたちと共におられるのです。