2016年4月3日日曜日

「なお共にいる救い主」マタイによる福音書9:18-26

「わたしの娘(むすめ)がたったいま死(し)にました。でも、おいでになって手(て)を置(お)いてやってください。そうすれば、生(い)き返(かえ)るでしょう」そう叫(さけ)ぶ指導者(しどうしゃ)の家(いえ)へと主(しゅ)イエスはたどり着(つ)きました。そこは、娘(むすめ)が死(し)んだという、死(し)の香(かお)りで満(み)ちていました。笛(ふえ)を吹(ふ)いて娘(むすめ)の死(し)を知(し)らせる者(もの)らがおり、娘(むすめ)の死(し)のことで騒(さわ)ぐ群衆(ぐんしゅう)がいます。この彼(かれ)らを、主(しゅ)イエスは家(いえ)から追(お)い払(はら)います。「あちらへ行(ゆ)きなさい。少女(しょうじょ)は死(し)んだのではない。眠(ねむ)っているのだ」と。そこは、主(しゅ)イエスによって命(いのち)が満(み)ちる家(いえ)だからです。一方(いっぽう)、人々(ひとびと)はあざ笑(わら)います。少女(しょうじょ)は死(し)んだのだ。この事実(じじつ)をくつがえせる訳(わけ)がない。死(し)は、わたくしたちにとってけっして変(か)わらぬものとして、覆(おお)い被(かぶ)さっている。
ところが主(しゅ)イエスにおいて死(し)は、眠(ねむ)りに等(ひと)しい。主(しゅ)イエスは死(し)んでしまった少女(しょうじょ)を死(し)から命(いのち)へと生(い)かします。主(しゅ)イエスが少女(しょうじょ)の手(て)を取(と)ると、少女(しょうじょ)は起(お)きあがりました。
たしかに少女(しょうじょ)は、また死(し)ぬ命(いのち)を得たにすぎません。しかしそこに主(しゅ)イエスは、わたくしたちを死(し)から命(いのち)へと永遠(えいえん)の命(いのち)に生(い)かす神(かみ)の摂理(せつり)を示(しめ)します。死(し)から復活(ふっかつ)させられたご自身(じしん)の香(かお)りを満(み)たします。わたくしたちが、わたくしたちを死(し)から命(いのち)へと生(い)かす神(かみ)を知(し)らず、死(し)んで終(お)わりの命(いのち)を生(い)きるほかないという考(かんが)えで満(み)ちたままでいることについて、もはや主(しゅ)イエスは黙(だま)っておられないのです。
主(しゅ)イエス・キリストにあって死(し)は、単(たん)に眠(ねむ)りにすぎない。この主(しゅ)キリストによって、この方(かた)に連(つら)なるわたくしたちも眠(ねむ)りから起(お)こされる。この神(かみ)の摂理(せつり)を、神(かみ)さまは十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させて明(あき)らかにしました。親(ちか)しい者(もの)の死(し)について、また、自(みずか)らの死(し)について叫(さけ)ぶほかない、わたくしたちが絶望(ぜつぼう)のただ中(なか)にあって、しかし叫(さけ)ぶわたしの声(こえ)を聞(き)く主(しゅ)イエス・キリストがいます。叫(さけ)ぶ者(もの)の声(こえ)を聞(き)き、立(た)ち上(あ)がらされ、求(もと)める者(もの)に従(したが)う主(しゅ)イエス・キリストがわたくしたちと共(とも)におられるのです。