2016年4月17日日曜日

「天の国は近づいた」マタイによる福音書10:1-15

主(しゅ)イエスは、わたくしたちの家(いえ)のため、「御国(みくに)を来(きた)らせたまえ」と祈(いの)る務(つと)めをわたくしたちに与(あた)えます。神(かみ)さまがわたくしたちをも用(もち)いて天(てん)の国(くに)のご支配(しはい)を一人(ひとり)ひとりへと及(およ)ぼすからです。この天(てん)の国(くに)の大使(たいし)として、わたくしたちは立(た)たされてまいります。
神(かみ)さまはわたくしたちをも用(もち)い、主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)を信(しん)じる信仰(しんこう)を及(およ)ぼします。「死(し)んだらもう希望(きぼう)がない」。そうつぶやくほかない、家(いえ)や町(まち)にあって、先(さき)んじてわたくしたちを、神(かみ)さまはお選(えら)びになりました。そして、わたくしたちをも通(とお)して、神(かみ)さまは死(し)をこえて命(いのち)をもたらす造(つく)り主(ぬし)のご支配(しはい)を、及(およ)ぼして行(ゆ)きます。死(し)をこえる命(いのち)のはじまりを、わたくしたちを通(とお)して、及(およ)ぼしてゆくのです。
「死(し)すべきこの身(み)を生(い)かす神(かみ)がおられる」と知(し)らなければ、わたくしたちは免(まぬか)れ得(え)ない死(し)という現実(げんじつ)を前(まえ)にして、自分(じぶん)が何者(なにもの)であるのか定(さだ)かにわからないまま、弱(よわ)り果(は)て、打(う)ちひしが
れるのではないでしょうか。「何(なん)のために生(い)き、何(なん)のために死(し)ぬ」、という問(と)いは、「わたしは何者(なにもの)なのか」という問(と)いに直(じか)につながります。
「わたしの子(こ)よ」と呼(よ)びかける、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまがおられます。この声(こえ)をわたくしたちは、わたくしたちの死(し)をこえて頂(いただ)くのです。神(かみ)さまはわたくしたちをお見捨(みす)てにはなりません。共(とも)に主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)に与(あずか)らせます。

わたくしたちは自(みずか)らの死(し)をこえて自分(じぶん)と関(かか)わることはできません。またほかの人(ひと)について、わたくしたちは思(おも)いを馳(は)せることはできても、死(し)をこえてこの人(ひと)と交(まじ)わることはできません。けれども、わたくしたちを造(つく)った神(かみ)さまは、わたくしたちの死(し)をこえてわたくしたちと向(む)き合(あ)い続(つづ)けてくださいます。この神(かみ)さまが、わたくしたちを死(し)をこえて御前(みまえ)に生(い)かす、とこしえに懐(ふところ)に抱(だ)く方(かた)であることを、主(しゅ)イエスを死(し)者(しゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させて証(あか)ししてくださいました。わたくしたちへと天(てん)の国(くに)はやってきました。造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまへと通(つう)じる門(もん)が開(ひら)かれたのです。