主イエスは、わたくしたちの家のため、「御国を来らせたまえ」と祈る務めをわたくしたちに与えます。神さまがわたくしたちをも用いて天の国のご支配を一人ひとりへと及ぼすからです。この天の国の大使として、わたくしたちは立たされてまいります。
神さまはわたくしたちをも用い、主イエスの復活を信じる信仰を及ぼします。「死んだらもう希望がない」。そうつぶやくほかない、家や町にあって、先んじてわたくしたちを、神さまはお選びになりました。そして、わたくしたちをも通して、神さまは死をこえて命をもたらす造り主のご支配を、及ぼして行きます。死をこえる命のはじまりを、わたくしたちを通して、及ぼしてゆくのです。
「死すべきこの身を生かす神がおられる」と知らなければ、わたくしたちは免れ得ない死という現実を前にして、自分が何者であるのか定かにわからないまま、弱り果て、打ちひしが
れるのではないでしょうか。「何のために生き、何のために死ぬ」、という問いは、「わたしは何者なのか」という問いに直につながります。
「わたしの子よ」と呼びかける、造り主なる神さまがおられます。この声をわたくしたちは、わたくしたちの死をこえて頂くのです。神さまはわたくしたちをお見捨てにはなりません。共に主イエスの復活に与らせます。
わたくしたちは自らの死をこえて自分と関わることはできません。またほかの人について、わたくしたちは思いを馳せることはできても、死をこえてこの人と交わることはできません。けれども、わたくしたちを造った神さまは、わたくしたちの死をこえてわたくしたちと向き合い続けてくださいます。この神さまが、わたくしたちを死をこえて御前に生かす、とこしえに懐に抱く方であることを、主イエスを死者の中から復活させて証ししてくださいました。わたくしたちへと天の国はやってきました。造り主なる神さまへと通じる門が開かれたのです。