道を閉ざされた者に、主は、ご自身の復活を告げ知らせる道を開きます。マリアたちは、ただ一つの逃れ場であった、十字架で死んだ主イエスがそこにいるという墓を失いました。墓には主イエスのご遺体はありませんでした。「あの方は、ここにはおられない」。道を失い、絶望したマリアたちに、主イエスは、ご自身の復活を告げ知らせる道を開きます。この道がわたくしたちにも与えられています。
天地の造り主なる神さまは、十字架で死んで葬られた主イエスを、死者の中から復活させました。この知らせは、造り主なる神さまが死に勝利し、死をこえて、死んだ主イエスと一つであることを、神さまがわたくしたちに証しした知らせです。単に御父と御子とが一つであるだけなら、わたくしたちに知られなくともそうあるはずです。わたくしたちが知らなくとも、神さまが主イエスといつも共におられるという事実は、変わりません。神さまは、ご自身と御子とが一つであるとわたくしたちに知ってほしいから、主イエスを復活させ、復活をわたくしたちに告げ知らせるのです。
そして、主イエスの復活がわたくしたちへと知らされるからには、神さまは死をこえて、わたくしたちと共におられることをわたくしたちに知ってほしいと望んでいます。
さらには、この神我らと共にいますというインマヌエルの中身が、主イエスを死から復活させた神がわたくしたちと共にいることであるからには、神が主イエスを復活させたという知らせは、わたくしたちをも死から復活させるという、神さまからのわたくしたちへの約束であるのです。
つまり主イエスはご自身の復活をわたくしたちに告げ知らせ、わたくしたちをも死から復活させることを約束します。主の復活の知らせは、死をこえて神我らと共にいますというインマヌエルの約束を、造り主なる神の言葉としてわたくしたちへと告げられているのです。