2016年3月6日日曜日

「神を崇めるために知る」マタイによる福音書9:1-8

(しゅ)イエスは中風(ちゅうぶ)(ひと)に、「()()がって(とこ)(かつ)ぎ、(いえ)(かえ)りなさい」と()いました。(めい)じられたこの(ひと)は、()(あが)がって(いえ)へと(かえ)ります。これを()群衆(ぐんしゅう)は「人間(にんげん)にこれほどの権威(けんい)をゆだねられた(かみ)」がここにおられると()り、(かみ)(あが)めます。
ただ、この群衆(ぐんしゅう)はのちに主イエスを十字架(じゅうじか)につけろ、と総督(そうとく)ピラトに(うった)えます(27:22)。(しゅ)イエスに(たい)し「これほどの権威(けんい)をゆだねられた(かみ)」を()っても、なお、(かみ)()(ひつ)(よう)群衆(ぐんしゅう)にありました。というのも、(かみ)さまは、この十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させたからです。(かみ)さまとは、(なに)一度(いちど)()ったからそれでもう(すべ)()ったと()えるものではありません。群衆(ぐんしゅう)自分(じぶん)たちなりに(かみ)()っていたでしょうが、(かみ)さまが十字架(じゅうじか)()んだイエスを復活(ふっかつ)させるなど、(おも)いもしませんし、()りませんでした。この(ふっ)(かつ)によって、(かみ)さまを()必要(ひつよう)が、(ぐん)(しゅう)にはあったのです。
(かみ)(しゅ)イエスを十字架(じゅうじか)()から(ふっ)(かつ)させ、この(かた)地上(ちじょう)(つみ)(ゆる)権威(けんい)()つことを(あき)らかにしました。(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()は、(かみ)見捨(みす)てられた(もの)としての()でした(27:46)。(かみ)から(もっと)()(はな)された(もの)として、(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()んで()ったのです。このイエスが、死者(ししゃ)(なか)から(ふっ)(かつ)させられました。(つみ)結果(けっか)として(ひと)()なねばなませんが(しゅ)イエスの()からの復活(ふっかつ)は、(つみ)からの解放(かいほう)であり、そうする(かみ)さまの(わざ)そのものの(あらわ)れです。この復活(ふっかつ)させられた当人(とうにん)だからこそ、主イエスは「(かみ)はあなたの(つみ)(ゆる)す。あなたの(つみ)(ゆる)される」と宣言(せんげん)できるのです。

(じつ)(しゅ)イエスは、(かみ)さまとの関係(かんけい)(そこ)なうことはありませんでした。それゆえこの(かた)は、すべての(ひと)(つみ)のため十字架(じゅうじか)()って()にました。(かみ)さまは(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させましたが、(しゅ)イエスが復活(ふっかつ)させられたご自身(じしん)弟子(でし)たちに(あら)わしたのは、代理(だいり)して()った(つみ)からの回復(かいふく)を、代理(だいり)した(もの)たちへと(とど)けるためであったのです。