2016年3月13日日曜日

「一人も滅びないために」マタイによる福音書9:9-13

わたくしたちは、わたくしたちの命(いのち)を誕生(たんじょう)させた方(かた)との関係(かんけい)を損(そこ)なったまま、わたしらしく生(い)きられるでしょうか。ここで「わたしらしく」とは、「神(かみ)に造(つく)られたわたしらしく」です。このことは、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)をたとえ信(しん)じていなかったとしても、自(みずか)らに問(と)わずには済(す)ませられない問題(もんだい)です。わたくしたちは、自分(じぶん)の命(いのち)の造(つく)り主(ぬし)とのあるべき関係(かんけい)へと回復(かいふく)させられ、神(かみ)の前(まえ)に立(た)つわたしとして立(た)つところを得る必(ひつ)要(よう)があります。
なぜならこのわたしは、他(ほか)の誰(だれ)かと置(お)き換(か)え可能(かのう)であるかのようなわたしではないからです。神(かみ)の前(まえ)に他(ほか)ではないあなたと呼(よ)ばれるわたしが生(う)まれました。主(しゅ)イエスはわたくしたちが、あなたでも誰(だれ)でもよいような「あなた」として生(い)きることから、神(かみ)の前(まえ)に立(た)つ「あなた」として生(い)かされるべく、わたくしたちを引(ひ)き出(だ)します。
「わたしが喜(よろこ)ぶのは愛(あい)であっていけにえではなく、神(かみ)を知(し)ることであって焼(や)き尽(つ)くす献(ささ)げ物(もの)ではない(ホセア書6:6)」。神(かみ)は神(かみ)の心(こころ)の通(かよ)ったわたしとの関係(かんけい)を求(もと)めます。それゆえわたしに問(と)います。「あなたは何者(なにもの)なのか」。神(かみ)さまの前(まえ)に、わたしこそわたしである。他(ほか)の何(なん)の飾(かざ)る言葉(ことば)もない、「わたし」として、主(しゅ)イエスによって立(た)つことを、神(かみ)さまは願(ねが)っています。まるで幼子(おさなご)が裸(はだか)のまま着飾(きかざ)ることなく、親(おや)の胸(むね)に抱(いだ)かれるようにして、わたくしたちが造(つく)り主(ぬし)の呼(よ)びかけに顔(かお)を向(む)け、立(た)ち上(あ)がって従(したが)うよう、神(かみ)は求(もと)めます。

神(かみ)さまはこの、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまの慈(いつく)しみを、死(し)を越(こ)えてなおわたくしたちへと及(およ)ぼすご意志(いし)を、十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させて明(あき)らかにしました。主(しゅ)イエスは十字(じゅうじ)架(か)で死(し)んだご自身(じしん)を示(しめ)し、ご自身(じしん)の復活を告(つ)げ知(し)らせることをもって、わたくしたちのこの身(み)に仕(つか)える神(かみ)のご意志(いし)を届(とど)けます。神(かみ)さまは死(し)んでなお命(いのち)を与(あた)える慈(いつく)しみをわたくしたちに満(み)たすのです。この神(かみ)のご意志(いし)こそ、神(かみ)の前(まえ)にわたくしたちが立(た)たされるところです。