わたくしたちは、わたくしたちの命を誕生させた方との関係を損なったまま、わたしらしく生きられるでしょうか。ここで「わたしらしく」とは、「神に造られたわたしらしく」です。このことは、造り主なる神をたとえ信じていなかったとしても、自らに問わずには済ませられない問題です。わたくしたちは、自分の命の造り主とのあるべき関係へと回復させられ、神の前に立つわたしとして立つところを得る必要があります。
なぜならこのわたしは、他の誰かと置き換え可能であるかのようなわたしではないからです。神の前に他ではないあなたと呼ばれるわたしが生まれました。主イエスはわたくしたちが、あなたでも誰でもよいような「あなた」として生きることから、神の前に立つ「あなた」として生かされるべく、わたくしたちを引き出します。
「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない(ホセア書6:6)」。神は神の心の通ったわたしとの関係を求めます。それゆえわたしに問います。「あなたは何者なのか」。神さまの前に、わたしこそわたしである。他の何の飾る言葉もない、「わたし」として、主イエスによって立つことを、神さまは願っています。まるで幼子が裸のまま着飾ることなく、親の胸に抱かれるようにして、わたくしたちが造り主の呼びかけに顔を向け、立ち上がって従うよう、神は求めます。
神さまはこの、造り主なる神さまの慈しみを、死を越えてなおわたくしたちへと及ぼすご意志を、十字架で死んだ主イエスを復活させて明らかにしました。主イエスは十字架で死んだご自身を示し、ご自身の復活を告げ知らせることをもって、わたくしたちのこの身に仕える神のご意志を届けます。神さまは死んでなお命を与える慈しみをわたくしたちに満たすのです。この神のご意志こそ、神の前にわたくしたちが立たされるところです。