湖に激しい嵐が起こり、舟が波にのまれそうになったとき、弟子たちはうろたえました。主イエスはこの舟で眠ったままでした。その主イエスに弟子たちは言います。「主よ、助けてください。おぼれそうです」。起こされた主イエスは弟子たちに言います。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」。共におられる主イエスを弟子たちが信じていないと言うのです。
ただ、この主イエスの言葉は、主イエスの沈黙と共にあってわたくしたちが自分につぶやく言葉でもあります。つまり、主イエスが共におられると信じ、主イエスがおられる舟にいるのに、この自分は実のところ主イエスがおられる舟に乗っていない。その自分を指して、わたしは信仰が薄い。そう叫ぶ他ないわたしがいる。ところが、その叫びを聞く、主イエス・キリストがおられるのです。その主イエスが沈黙をもってさえ、わたくしたちへとご支配を及ぼしてゆきます。
その舟におりながら、未だ主イエスがいる舟に乗っていない。だから嵐にあうとうろたえ、自らに叫びます。「信仰の薄い者よ」。しかしそのわたくしたちも、「主よ、助けてください」と叫ぶところを与えられています。
わたくしたちが叫び求めるべき先を、神さまは主イエスの復活によって示しました。それは、主イエス・キリスト、この身の死に打ち勝った御方です。わたくしたちはこの主に叫ぶことが出来る。叫ぶことで、主イエスと共に歩むことが出来る。これがわたくしたちに神さまが与えてくださった神の子の特権です。主イエスと共に歩むことは、「信仰の薄い者よ」「なぜ怖がるのか」と思えても、叫ぶところを知っており、この主イエスに叫び求める日々です。それが主の主権にひれ伏す歩みであり、礼拝は、その最もふさわしいわたくしたちの姿を、この地上で頂くものです。主が共におられる舟へと、わたくしたちもこの身を献げて従い、主の主権が満たされる、向こう岸へとゆかせて頂くのです。