「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と主イエスは言います。主イエスによって差し出された新しい命、永遠の命は、古い革袋には収まりません。新しい革袋が必要です。主イエスの命にわたくしたちが与るからには、主イエスの体に連ねられ、主イエスの体となる必要がある。ただ、わたくしたちの側からそのようなふさわしさを満たせません。わたくしたちへと差し出す主イエスにすがるのみです。
わたくしたちにとって幸いですのは、断食や禁欲、善い行いによって永遠の命を獲得しなければならない、そうふさわしくあらねばならない、という考えから、主イエスの側では解かれているということです。なおわたくしたちが、自分の側ではそうあらねばならない、と思い込んでいたとしても、です。そしてわたくしたちの側でも、主イエスによって解かれる必要があります。
なぜなら、わたくしたちは、元気で思いのままに断食や禁欲、善い行いを出来ているうちは、それはそれで自分にとって満足かもしれませんが、わたくしたちがやがて何もできなくなった時、自分でふさわしさを得ることはいよいよできなくなるからです。誰かがわたしの代わりにやってくれるでしょうか。誰かがやってくれたとして、それで十分、ふさわしさを満たすのでしょうか。
永遠の命は、神さまが与えるものです。わたくしたちが努力して獲得するものではありません。今ある命を神さまから無償で頂いたように、永遠の命も、無償でわたくしたちはいただく他ありません。すると、そのふさわしさは、わたくしたちの側ではなく、命の造り主なる神さまの側にあります。神さまは十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させ、神さまがわたくしたちにこの命を差し出しておられる、ということを証ししました。今はこの神の思いがわたくしたちに満ちる喜びの時であるのです。