2016年3月20日日曜日

「喜びの時が来た」マタイによる福音書9:14-17

「新(あたら)しいぶどう酒(しゅ)は、新(あたら)しい革袋(かわぶくろ)に入(い)れるものだ」と主(しゅ)イエスは言(い)います。主(しゅ)イエスによって差(さ)し出(だ)された新(あたら)しい命(いのち)、永遠(えいえん)の命(いのち)は、古(ふる)い革袋(かわぶくろ)には収(おさ)まりません。新(あたら)しい革袋(かわぶくろ)が必要(ひつよう)です。主(しゅ)イエスの命(いのち)にわたくしたちが与(あずか)るからには、主(しゅ)イエスの体(からだ)に連(つら)ねられ、主(しゅ)イエスの体(からだ)となる必要(ひつよう)がある。ただ、わたくしたちの側(がわ)からそのようなふさわしさを満(み)たせません。わたくしたちへと差(さ)し出(だ)す主(しゅ)イエスにすがるのみです。
わたくしたちにとって幸(さいわ)いですのは、断食(だんじき)や禁欲(きんよく)、善(よ)い行(おこな)いによって永遠(えいえん)の命(いのち)を獲得(かくとく)しなければならない、そうふさわしくあらねばならない、という考(かんが)えから、主(しゅ)イエスの側(がわ)では解(と)かれているということです。なおわたくしたちが、自分(じぶん)の側(がわ)ではそうあらねばならない、と思(おも)い込(こ)んでいたとしても、です。そしてわたくしたちの側(がわ)でも、主(しゅ)イエスによって解(と)かれる必要(ひつよう)があります。
なぜなら、わたくしたちは、元気(げんき)で思(おも)いのままに断食(だんじき)や禁欲(きんよく)、善(よ)い行(おこな)いを出来(でき)ているうちは、それはそれで自分(じぶん)にとって満足(まんぞく)かもしれませんが、わたくしたちがやがて何(なに)もできなくなった時(とき)、自分(じぶん)でふさわしさを得(え)ることはいよいよできなくなるからです。誰(だれ)かがわたしの代(か)わりにやってくれるでしょうか。誰(だれ)かがやってくれたとして、それで十分(じゅうぶん)、ふさわしさを満(み)たすのでしょうか。
永遠(えいえん)の命(いのち)は、神(かみ)さまが与えるものです。わたくしたちが努力(どりょく)して獲得(かくとく)するものではありません。今(いま)ある命(いのち)を神(かみ)さまから無償(むしょう)で頂(いただ)いたように、永遠(えいえん)の命(いのち)も、無償(むしょう)でわたくしたちはいただく他(ほか)ありません。すると、そのふさわしさは、わたくしたちの側(がわ)ではなく、命(いのち)の造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまの側(がわ)にあります。神(かみ)さまは十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させ、神(かみ)さまがわたくしたちにこの命(いのち)を差(さ)し出(だ)しておられる、ということを証(あか)ししました。今(いま)はこの神(かみ)の思(おも)いがわたくしたちに満(み)ちる喜(よろこ)びの時(とき)であるのです。