2016年2月14日日曜日

「この身の十字架を担う神」マタイによる福音書8:14-17


(しゅ)イエスは、(ねつ)()して寝込(ねこ)んでいた、ペトロのしゅうとめの()()って、(ねつ)()らせました。また、人々(ひとびと)()れてきた病人(びょうにん)(みな)いやしました。マタイによる福音書(ふくいんしょ)はここに、イザヤ(しょ)(だい)53(しょう)4(せつ)実現(じつげん)()ます。「それは、預言者(よげんしゃ)イザヤを(とお)して()われていたことが実現(じつげん)するためであった。「(かれ)はわたしたちの(わずら)いを()い、わたしたちの(やまい)(にな)った」。
たしかに、いやされました(もの)たちも、弟子(でし)のペトロもそのしゅうとめも、(しゅ)イエスがイザヤ(しょ)(だい)53(しょう)預言(よげん)された苦難(くなん)(しもべ)だとはこのとき()ていません。あの預言(よげん)実現(じつげん)を、(しゅ)イエスとの(かか)わりにおいてこの()()こされているとは()りません。いやされることにおいても、なお()りません。ペトロもマタイも、そうだと()ったのは、(しゅ)イエスが十字架(じゅうじか)()なれ、()から復活(ふっかつ)させられた(あと)のことです。
この復活(ふっかつ)(ひかり)のもと、マタイによる福音書(ふくいんしょ)は、病人(びょうにん)がいやされたのは、(しゅ)イエスこそがその(やまい)(にな)ったからだと()います。そればかりではなく、たとえ(いま)だいやされないでいたとしても、その(やまい)(わずら)いも不条理(ふじょうり)をも、(しゅ)イエスは(にな)っているのです。
(しゅ)イエスは、もはや()から復活(ふっかつ)させられ、(てん)(ちち)なる(かみ)さまの(みぎ)()におられます。けれども、わたくしたちの十字架(じゅうじか)()うことを()めてはおられません。(たん)十字架(じゅうじか)()んでしまわれた(とき)だけではなく、(いま)この(とき)も、わたくしたちの現実(げんじつ)(とも)にあり、わたくしたちの(わずら)いも(やまい)をも(にな)い、わたくしたちのこの()十字架(じゅうじか)を、(しゅ)イエスは()()っておられます。
わたくしたちは()ぬとすれば(しゅ)イエスと(とも)()ぬのであり、この(しゅ)イエスと(とも)にあるわたくしたちを、(しゅ)イエスは死者(ししゃ)(なか)からの復活(ふっかつ)にあずからせてくださいます。そのようにして、わたくしたちを(いつく)しみ、わたくしたちのところにまで(くだ)ってくださり、()()()()べてわたくしたちを根底(こんてい)から(ささ)える、わたくしたちの(つく)(ぬし)なる(かみ)さまがおられるのです。