主イエスは、熱を出して寝込んでいた、ペトロのしゅうとめの手を取って、熱を去らせました。また、人々が連れてきた病人を皆いやしました。マタイによる福音書はここに、イザヤ書第53章4節の実現を見ます。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」。
たしかに、いやされました者たちも、弟子のペトロもそのしゅうとめも、主イエスがイザヤ書第53章に預言された苦難の僕だとはこのとき見ていません。あの預言の実現を、主イエスとの関わりにおいてこの身に起こされているとは知りません。いやされることにおいても、なお知りません。ペトロもマタイも、そうだと知ったのは、主イエスが十字架で死なれ、死から復活させられた後のことです。
この復活の光のもと、マタイによる福音書は、病人がいやされたのは、主イエスこそがその病を担ったからだと言います。そればかりではなく、たとえ未だいやされないでいたとしても、その病も患いも不条理をも、主イエスは担っているのです。
主イエスは、もはや死から復活させられ、天の父なる神さまの右の座におられます。けれども、わたくしたちの十字架を負うことを止めてはおられません。単に十字架で死んでしまわれた時だけではなく、今この時も、わたくしたちの現実と共にあり、わたくしたちの患いも病をも担い、わたくしたちのこの身の十字架を、主イエスは負い切っておられます。
わたくしたちは死ぬとすれば主イエスと共に死ぬのであり、この主イエスと共にあるわたくしたちを、主イエスは死者の中からの復活にあずからせてくださいます。そのようにして、わたくしたちを慈しみ、わたくしたちのところにまで降ってくださり、御手を差し伸べてわたくしたちを根底から支える、わたくしたちの造り主なる神さまがおられるのです。