2015年9月13日日曜日

「義に飢え渇く人々は幸い」マタイによる福音書5:1-12


()()(かわ)人々(ひとびと)は、(さいわ)いである、その(ひと)たちは()たされる」と(しゅ)イエスは()います。()は、わたくしたちを祝福(しゅくふく)する(かみ)さまに(たい)する、わたくしたちの姿勢(しせい)()います。(かみ)さまは、わたくしたちを祝福(しゅくふく)しておられます。その祝福(しゅくふく)(たい)(ただ)しい関係(かんけい)をわたくしたちに(もと)めます。その関係(かんけい)旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)律法(りっぽう)(あらわ)されており、(かみ)(あい)(ひと)(あい)するという関係(かんけい)が、その中心(ちゅうしん)です。ただ、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)(たい)するわたくしたちの姿勢(しせい)は、なお(かみ)さまから祝福(しゅくふく)()けなければ、(かみ)さまへと()(なお)りません。(かみ)さまがわたくしたちの姿勢(しせい)(ただ)してくださるので、(かみ)さまへと()(なお)れるのです。そのため(かみ)さまは(しゅ)イエスをわたくしたちに(あた)えてくださいました。この(しゅ)イエスを()()れ、(かみ)さまとの関係(かんけい)(ただ)しくなることを、(しゅ)イエスは(もと)めます。
しかしそれに()(かわ)くとはどういうことでしょうか。(あき)らかなのは、この人々(ひとびと)自分(じぶん)たちや自分(じぶん)(まわ)りに()がないと()ているということです。
なぜわたしはこのように()きねばならないのか、なぜわたしはこう()なねばならないのか、という()いがあります。()きる価値(かち)()価値(かち)見出(みいだ)せない。だから()きるのも()ぬのも、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)のもとにあるとは(おも)えない。そこでわたくしたちは(かみ)さまとの(ただ)しい関係(かんけい)危機(きき)(さら)されています。
()()えれば、(かみ)さまの()()うているのです。なぜ(かみ)さまは(ただ)しい御方(おかた)なのに、わたしがこのように()きねばならないのか、わたしがこう()なねばならないのか、と。そこに(かみ)さまの()(かみ)さまの(ただ)しさが(しめ)されることが、(なん)としても必要(ひつよう)です。そうでなければ、わたくしたちはなお()きても()んだようであり、その価値(かち)見出(みいだ)せず()(かわ)き、()つところを見失(みうしな)います。
ですが(しゅ)イエスは(さいわ)いだと()います。それは、(しゅ)イエスが()たからです。わたくしたちのために十字架(じゅうじか)()んでくださった(しゅ)イエスが()たからです。()きるにも()ぬにも、わたくしたちの責任(せきにん)()い、(とも)にいてくださる(しゅ)イエスが、わたくしたちを(かみ)さまとの(ただ)しい関係(かんけい)へと(みちび)きます。その関係(かんけい)(まっと)うされる(てん)(くに)にわたくしたちを()たせてくださるのです。