「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と主イエスは言います。義は、わたくしたちを祝福する神さまに対する、わたくしたちの姿勢を言います。神さまは、わたくしたちを祝福しておられます。その祝福に対し正しい関係をわたくしたちに求めます。その関係は旧約聖書の律法に表されており、神を愛し人を愛するという関係が、その中心です。ただ、神さまの祝福に対するわたくしたちの姿勢は、なお神さまから祝福を受けなければ、神さまへと向き直りません。神さまがわたくしたちの姿勢を正してくださるので、神さまへと向き直れるのです。そのため神さまは主イエスをわたくしたちに与えてくださいました。この主イエスを受け入れ、神さまとの関係が正しくなることを、主イエスは求めます。
しかしそれに飢え渇くとはどういうことでしょうか。明らかなのは、この人々は自分たちや自分の周りに義がないと見ているということです。
なぜわたしはこのように生きねばならないのか、なぜわたしはこう死なねばならないのか、という問いがあります。生きる価値、死ぬ価値が見出せない。だから生きるのも死ぬのも、神さまの祝福のもとにあるとは思えない。そこでわたくしたちは神さまとの正しい関係が危機に晒されています。
言い換えれば、神さまの義を問うているのです。なぜ神さまは正しい御方なのに、わたしがこのように生きねばならないのか、わたしがこう死なねばならないのか、と。そこに神さまの義、神さまの正しさが示されることが、何としても必要です。そうでなければ、わたくしたちはなお生きても死んだようであり、その価値が見出せず飢え渇き、立つところを見失います。
ですが主イエスは幸いだと言います。それは、主イエスが来たからです。わたくしたちのために十字架で死んでくださった主イエスが来たからです。生きるにも死ぬにも、わたくしたちの責任を負い、共にいてくださる主イエスが、わたくしたちを神さまとの正しい関係へと導きます。その関係が全うされる天の国にわたくしたちを立たせてくださるのです。