主イエスはトマスに言いました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。主イエスは、十字架で死んだご自身を神さまが死者の中から復活させたと信じることへ、わたくしたちを導きます。ただ、トマスのように、自分が信じるに足るしるしをわたくしたちも願うかもしれません。福音書は「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさった」と言います。ですがそれら書かず、書いたことによって、目的を果たそうとします。
つまり、ほかの書かれなかったしるしに意味がないわけではないものの、ここに書かれたことこそ、わたくしたちが「イエスは神の子メシアであると信じるため」、また、「信じてイエスの名により命を受けるため」に意味を持つ、と強調します。このことを、トマスの出来事のすぐ後に記しました。他にもしるしはあったけれども、それらを見ないで主イエスのご復活を信じることを、福音書は求め、そこに幸いがあると証しします。
トマスはおそらく、このとき主イエスに触れることはありませんでした。けれども、触れて知ろうとした以上のことを、主イエスからトマスは示されました。トマスは主イエスにひれ伏して叫びます。「わたしの主、わたしの神よ」と。トマスは、復活させられた主イエスのお姿に、天の父なる神さまの御顔を見させて頂きました。
見ないで信じることへと主イエスが導くのは、信仰が天から与えられる賜物であるからです。納得しうるしるしを自分で獲得したから信じるというのではない。この、天からの賜物、神に起源をもつ信仰を与え、わたくしたちを信じる者とならせようと、主イエス・キリストが導いておられます。
この方は、礼拝において聖書の言葉を語り聞かせ、不確かなわたくしたちの手を掴み導いておられます。わたくしたちがこの方を信じるのは、ただこの主イエスが導いておられることによります。未だこの信仰を告白するに至らなかったときにも、「あなたのためにわたしイエスは死に、復活させられた」と告げ知らせ、見ずに信じる幸いへと導いておられたのです。