2015年7月12日日曜日

「信じる人は幸いである」ヨハネによる福音書 20:24-31


(しゅ)イエスはトマスに()いました。「わたしを()たから(しん)じたのか。()ないのに(しん)じる(ひと)は、(さいわ)いである」。(しゅ)イエスは、十字架(じゅうじか)()んだご自身(じしん)(かみ)さまが死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させたと(しん)じることへ、わたくしたちを(みちび)きます。ただ、トマスのように、自分(じぶん)(しん)じるに()るしるしをわたくしたちも(ねが)うかもしれません。福音書(ふくいんしょ)は「このほかにも、イエスは弟子(でし)たちの(まえ)で、(おお)くのしるしをなさった」と()います。ですがそれら()かず、()いたことによって、目的(もくてき)()たそうとします。
つまり、ほかの()かれなかったしるしに意味(いみ)がないわけではないものの、ここに()かれたことこそ、わたくしたちが「イエスは(かみ)()メシアであると(しん)じるため」、また、「(しん)じてイエスの()により(いのち)()けるため」に意味(いみ)()つ、と強調(きょうちょう)します。このことを、トマスの()()(ごと)のすぐ(あと)(しる)しました。(ほか)にもしるしはあったけれども、それらを()ないで(しゅ)イエスのご復活(ふっかつ)(しん)じることを、福音書(ふくいんしょ)(もと)め、そこに(さいわ)いがあると(あか)しします。
トマスはおそらく、このとき(しゅ)イエスに()れることはありませんでした。けれども、()れて()ろうとした以上(いじょう)のことを、(しゅ)イエスからトマスは(しめ)されました。トマスは(しゅ)イエスにひれ()して(さけ)びます。「わたしの(しゅ)、わたしの(かみ)よ」と。トマスは、復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスのお姿(すがた)に、(てん)(ちち)なる(かみ)さまの御顔(おかお)()させて(いただ)きました。
()ないで(しん)じることへと(しゅ)イエスが(みちび)くのは、信仰(しんこう)(てん)から(あた)えられる賜物(たまもの)であるからです。納得(なっとく)しうるしるしを自分(じぶん)獲得(かくとく)したから(しん)じるというのではない。この、(てん)からの賜物(たまもの)(かみ)起源(きげん)をもつ信仰(しんこう)(あた)え、わたくしたちを(しん)じる(もの)とならせようと、(しゅ)イエス・キリストが(みちび)いておられます。
この(かた)は、礼拝(れいはい)において聖書(せいしょ)言葉(ことば)(かた)()かせ、不確(ふたし)かなわたくしたちの()(つか)(みちび)いておられます。わたくしたちがこの(かた)(しん)じるのは、ただこの(しゅ)イエスが(みちび)いておられることによります。(いま)だこの信仰(しんこう)告白(こくはく)するに(いた)らなかったときにも、「あなたのためにわたしイエスは()に、復活(ふっかつ)させられた」と()()らせ、()ずに(しん)じる(さいわ)いへと(みちび)いておられたのです。