2015年7月19日日曜日

「神からの命の食べ物」ヨハネによる福音書21:1-14


(あみ)は、(おお)きな(さかな)でいっぱいでした。ペトロが(りく)()()げてみると、(さかな)は百五十三(ひき)もありました。しかも、(あみ)(やぶ)れていません。(おどろ)きのあまり()()まっている弟子(でし)たちに、(しゅ)イエスは()()けます。「さあ、()て、(あさ)食事(しょくじ)をしなさい」。
もう、(だれ)もわざわざ(しゅ)イエスに、「あなたはどなたですか」と()うことをしませんでした。この食卓(しょくたく)主人(しゅじん)(だれ)で、(なん)食卓(しょくたく)(あずか)っているのか、よく(わか)かっていたからです。(なに)()りないことがあるかのように、()必要(ひつよう)はありません。(かれ)らは(しゅ)イエスが(そな)えてくださった、(かみ)からの(いのち)()(もの)によって(やしな)われます。これは()()えますなら、「(しゅ)がおられるという出会(であ)いこそ、わたくしたちにとって(かみ)からの(いのち)()(もの)である」ということです。弟子(でし)たちが()わないのは、「(しゅ)がおられる」という出会(であ)いによって(かれ)らが()たされているからなのです。
(しゅ)イエスの(あい)しておられた弟子(でし)は、(おも)いも()けず大漁(たいりょう)(あた)えられ、「(しゅ)だ」「(しゅ)がおられる」と告白(こくはく)させられました。この告白(こくはく)は、「わたしはある」とご自身(じしん)(あらわ)してくださった(出エジプト記第三章)(しゅ)にお(こた)えする言葉(ことば)です。この告白(こくはく)をもたらす出会(であ)いをわたくしたちにも(あた)えようと、(かみ)さまは死者(ししゃ)(なか)から(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させて、「わたしはある」というご自身(じしん)(あか)ししてくださいました。(しゅ)イエスは礼拝(れいはい)へと(まね)き、聖書(せいしょ)言葉(ことば)(とお)して、ご自身(じしん)復活(ふっかつ)をわたくしたちに()()らせます。この(しゅ)との出会(であ)いは、(かみ)からの(いのち)()(もの)として、わたくしたちを()たします。
()きるにも()ぬにも、わたくしたちの(しゅ)として、(しゅ)イエス・キリストが(とも)におられる。その(しゅ)が、わたくしたちへと(かた)りかけ、「(しゅ)がおられる」(みち)へとわたくしたちを()()がらせておられます。(かみ)からの(いのち)食卓(しょくたく)用意(ようい)して、わたくしたちに()()け、礼拝(れいはい)へと(まね)(しゅ)がおられます。「わたしはある」とキリストの復活(ふっかつ)において宣言(せんげん)された(かみ)言葉(ことば)(まえ)にわたくしたちも()()がらされ、「(しゅ)がおられる」(みち)をまことに(しゅ)イエスと(とも)(すす)ませて(いただ)くのです。