網は、大きな魚でいっぱいでした。ペトロが陸に引き上げてみると、魚は百五十三匹もありました。しかも、網は破れていません。驚きのあまり立ち止まっている弟子たちに、主イエスは呼び掛けます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。
もう、誰もわざわざ主イエスに、「あなたはどなたですか」と問うことをしませんでした。この食卓の主人が誰で、何の食卓に与っているのか、よく分かっていたからです。何か足りないことがあるかのように、問う必要はありません。彼らは主イエスが備えてくださった、神からの命の食べ物によって養われます。これは言い換えますなら、「主がおられるという出会いこそ、わたくしたちにとって神からの命の食べ物である」ということです。弟子たちが問わないのは、「主がおられる」という出会いによって彼らが満たされているからなのです。
主イエスの愛しておられた弟子は、思いも掛けず大漁を与えられ、「主だ」「主がおられる」と告白させられました。この告白は、「わたしはある」とご自身を現してくださった(出エジプト記第三章)主にお応えする言葉です。この告白をもたらす出会いをわたくしたちにも与えようと、神さまは死者の中から主イエスを復活させて、「わたしはある」というご自身を証ししてくださいました。主イエスは礼拝へと招き、聖書の言葉を通して、ご自身の復活をわたくしたちに告げ知らせます。この主との出会いは、神からの命の食べ物として、わたくしたちを満たします。
生きるにも死ぬにも、わたくしたちの主として、主イエス・キリストが共におられる。その主が、わたくしたちへと語りかけ、「主がおられる」道へとわたくしたちを立ち上がらせておられます。神からの命の食卓を用意して、わたくしたちに呼び掛け、礼拝へと招く主がおられます。「わたしはある」とキリストの復活において宣言された神の言葉の前にわたくしたちも立ち上がらされ、「主がおられる」道をまことに主イエスと共に進ませて頂くのです。