2014年8月31日日曜日

「生きた水の源泉」ヨハネによる福音書 7:35-52

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。そう言って主イエスはわたくしたちを招いておられます。主イエスはわたくしたちに天から聖霊を注ぎたいのです。十字架の死から復活された主イエスは、弟子たちに顕われて言いました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る(20:22)」。また、主イエスはサマリアの女に出会い、彼女の渇きを満たすのはメシア(油注がれた者)であるご自身だと明らかにしました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(4:14)」。主イエスは渇けるわたくしたちにご自身を差し出して、永遠の命で満たそうとするのです。

ですが、「渇いている者は」と言われて、「わたしがそうだ」という人がどれだけいるでしょうか。わたくしたちはむしろ、渇いている自分を人に知られたくありません。渇いていない自分でいたいのです。渇いている自分に出会わなくてもよいように、何かしらのごまかしに逃げているところがあるのです。そのための便利な道具は日々市場に出回り、わたくしたちを満たしてくれるかのような気にさせます。もはや主イエスに関わってもらってもらうことなど、望んではいない。

それは主イエスの歩まれた当時もそうでした。自分が渇いていると認めたくない者たち、メシアを期待しながらも自分の渇いているところには来てほしくない者たち。その彼らのところに、主イエスはやって来られました。そしてこの者たちに対して、主イエスは渇きました。自分の渇きを見ようとしないわたくしたちのために、主イエスが渇き尽くして、十字架で死んでゆかれたのです(19:28)。

主イエスが見ているわたくしたちの渇きとは、命の問題です。自分の命を造った神との生ける交わりを欠いてしまい、この命の造り主の意に添って生きられずにいることです。滅びに向かってゆくことから逃れられず、うめいていることです。生きるをも死ぬをも支配する神を受け入れられないでいることです。そのわたくしたちの渇きを満たすため、主イエスは十字架の死をもって、ご自身の命を神にささげられました。そして主イエスは「聖霊を受けなさい」とご自身の復活を示して、永遠の命をわたくしたちに注いでおられます。この方を源とするとき、わたくしたちからも生きた水が川となって流れ出るのです。