2014年8月3日日曜日

「命を与える言葉」 ヨハネによる福音書 6:60-71

主イエスの教えを聞いて人々が離れ去る中、十二弟子の一人ペトロは言いました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。主イエスを信じる信仰をペトロが告白するのに対して、主イエスは言われました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」。

自分が何を信じているか、と自らに問うとき、わたくしたちはしばしば、自分で選び取った対象について、「それをわたしは信じる」と受け止めていることがあります。「これについては信じるに値する。信じることで益がある。間違いのない根拠がある」、と自分で調べて確かめた上で、「わたしはこれを信じる」と選び取るのです。

けれども主イエスは、何かわたくしたちがこの方を選び取ってこちら側に連ならせることよりも、むしろ、主イエスがわたくしたちを選んだということへとわたくしたちが信頼を置く信仰をわたくしたちに求めます。生きるにも死ぬにも、逆境のときも順境のときも、主イエスがわたくしたちを選んだということは変わりません。永遠の命を得るようにとの、天の父なる神の御心のもとに、わたくしたちは生を与えられています。神の側にある御心にわたくしたちは信頼してよいのです。

幼子が自分の親を親であると信頼することから歩み始めているように、わたくしたちも主イエスに選ばれた者として生を受けたことを信頼して、主イエス・キリストを信じて歩むことを、天の父なる神さまは望んでおられます。天の父なる神さまに造られたものとしてわたくしたちが生かされるところに、わたくしたちのあるべき姿があります。どんな絵画でも、その描き手の思いがあってこそです。わたくしたちも造り主なる神さまの思いが込められた、輝かしい命の作品なのです。

そしてさらにわたくしたちが、死から復活させられた方の選びの下に生を与えられているというのであれば、この主イエスとわたくしたちとの結びつき、関係は、死で終わりません。永遠の命を得させるという天の父なる神さまのわたくしたちへの御意志は、わたくしたちが死んでも損なわれるものではない。むしろ死を越える希望にわたくしたちはなお立つ者とされているのです。主イエスは終わりの日にわたくしたちを復活させるため、ご自身に結び合わせるべくわたくしたちを迎えておられます。