2019年1月6日日曜日

「豊かに愛される道」コリントの信徒への手紙二 8:1-15

相手あいてにないものを求めず、自分じぶんにあるものをしまず与える用意よういがある。そう信頼しんらいしあえる関係かんけいがあると、わたくしたちは安心あんしんします。ゆたかにあいうことができます。かみさまも、わたしなにかしらをしょゆうしているからわたしみとめるのではありません。わたしという存在そんざいそのものをあいしてくださるから、わたし安心あんしんできるのです。わたくしたちは、あいされ上手じょうずになる必要ひつようがあります。
はらをすかした五千人ごせんにんおとこまえにし、しゅイエスは少年しょうねんしたいつつのパンと二匹にひきさかなかみ感謝かんしゃして、あたえます。そばにいる弟子でしたちには「なんやくにもたない」(ヨハネ6:9)とえたこの少年しょうねんを、しゅイエスはゆたかにもちいます。人々ひとびとしいだけり、満腹まんぷくしました。「おおあつめたものあまることなく、すくなくあつめたものりないことなく」(出エジプト16:18)。天来てんらいのマナはそのごとにたみ必要ひつようたしました。しゅわたしゆたかにもちいてくださいます。
パウロはこの信頼しんらいみなもとしゅイエス・キリストのめぐみにます。このおかたは「かみではない」とさげすまれ(ヨハネ19:7)、十字架じゅうじかにおいてだれにも価値かちのない姿すがたんでいきました。しかしかみさまは、まずしくんだこのおかた復活ふっかつさせ、かみとしてあぶらそそぎ、わたくしたちをゆたかにめぐしゅとされました。「しゅゆたかであったのに、あなたがたのためにまずしくなられた。それは、しゅまずしさによって、あなたがたがゆたかになるためだった」。パウロはそううったえます。
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わたくしたちは「っていない」といってみとめてもらえないのではありません。かみさまはわたくしたちそのものをすべ歓迎かんげいしてもちいてくださいます。このあいされるあゆみを、洗礼せんれいけ、聖餐せいさんあずかることからはじめさせてくださいます。じつに、わたくしたちのあいしゅへのささものであり、これをけるあいしゅがこのものあたえるのであり、きも損得そんとくもありません。かみこそがわたしみとめ、しゅイエスがかみ感謝かんしゃしてわたしすべてをれておられます。