相手にないものを求めず、自分にあるものを惜しまず与える用意がある。そう信頼しあえる関係があると、わたくしたちは安心します。豊かに愛し合うことができます。神さまも、私が何かしらを所有しているから私を認めるのではありません。私という存在そのものを愛してくださるから、私も安心できるのです。わたくしたちは、愛され上手になる必要があります。
腹をすかした五千人の男を前にし、主イエスは少年が差し出した五つのパンと二匹の魚を神に感謝して、分け与えます。そばにいる弟子たちには「何の役にも立たない」(ヨハネ6:9)と見えたこの少年を、主イエスは豊かに用います。人々は欲しいだけ受け取り、満腹しました。「多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく」(出エジプト16:18)。天来のマナはその日ごとに民の必要を満たしました。主は私を豊かに用いてくださいます。
パウロはこの信頼の源を主イエス・キリストの恵みに見ます。このお方は「神の子ではない」と蔑まれ(ヨハネ19:7)、十字架において誰の目にも価値のない姿で死んでいきました。しかし神さまは、貧しく死んだこのお方を復活させ、神の子として油を注ぎ、わたくしたちを豊かに恵む主とされました。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」。パウロはそう訴えます。
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わたくしたちは「持っていない」といって認めてもらえないのではありません。神さまはわたくしたちそのものを全て歓迎して用いてくださいます。この愛される歩みを、洗礼を受け、聖餐に与ることから始めさせてくださいます。実に、わたくしたちの愛は主への献げ物であり、これを受ける相手は主がこの者に与えるのであり、駆け引きも損得もありません。神こそが私を認め、主イエスが神に感謝して私の全てを受け入れておられます。