2019年1月13日日曜日

「十分に恵まれる神」コリントの信徒への手紙二 9:1-15

言葉ことばではくせないおくものについてかみ感謝かんしゃします。」そうパウロがいますのは、遠方えんぽう教会同士きょうかいどうしたがいをおぼいのい、ほどこしをうほどまじわりがはじめられたからです。コリントの教会きょうかいものたちがかみすくわれ、ゆたかにめぐまれた。そのめぐみはあふれこころからのほどこしとなり、パウロたちのつうじ、エルサレムの教会きょうかいとどけられけることになる。
エルサレムの教会きょうかいには「モーセの慣習かんしゅうしたがって割礼かつれいけなければ、あなたがたはすくわれない」として、邦人ほうじんかみすくわれるとみとめない立場たちばものがいました(使徒言行録15:1)。ですがこのものたちのおもいをえ、かみいつくしみは異邦人いほうじんにもおよび、そのめぐみはかれらにちあふれ、真心まごころからのささものが、困窮こんきゅうするエルサレム教会きょうかいへととどけられます。エルサレムのものたちはここにかみからのめぐみを、コリントのものたちをしたい、かれらのためいのります。かみいつくしみが永遠えいえんつづくように、と。
じつに、エルサレム教会きょうかいものたちをすくかみめぐみは、かれらにちあふれ、異邦人いほうじんにもおよぶものでした。それはかれらがおもいもしなかったことです。おなじように、かみはコリントにたねあたえ、それをやし、こころからのほどこしをみ、かみへの感謝かんしゃをエルサレムにむすびます。コリントのものたちも、自分じぶんすくかみからのめぐみがこのようにちあふれるとはおもいもしなかった。ですがこのようなめぐみがしゅイエス・キリストからちあふれ、コリントの教会きょうかいものたちにもとどけられたのです。
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しゅイエスはすべてのひとのためにじゅう字架じかんでくださいました。それは、このかたむすばれたわたしが、もはや自分じぶん自身じしんのためにきるのではなく、自分じぶんたちのためにんで復活ふっかつしてくださったかたのためにきるためでした(5:15)。わたくしたちにとどけられたかみめぐみはわたくしたちをすくい、人間にんげんおもいをえて一人ひとりひとりにおよぼされます。わたくしたちは、ちあふれるかみめぐみを礼拝れいはいことめ、さらなる一人ひとりすくいのためいのります。