「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」そうパウロが言いますのは、遠方の教会同士が互いを覚え祈り合い、施しを分け合うほど交わりが始められたからです。コリントの教会の者たちが神に救われ、豊かに恵まれた。その恵みはあふれ出て心からの施しとなり、パウロたちの手を通じ、エルサレムの教会に届けられ分けることになる。
エルサレムの教会には「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」として、異邦人が神に救われると認めない立場の者がいました(使徒言行録15:1)。ですがこの者たちの思いを超え、神の慈しみは異邦人にも及び、その恵みは彼らに満ちあふれ、真心からの献げ物が、困窮するエルサレム教会へと届けられます。エルサレムの者たちはここに神からの恵みを見、コリントの者たちを慕い、彼らのため祈ります。神の慈しみが永遠に続くように、と。
実に、エルサレム教会の者たちを救う神の恵みは、彼らに満ちあふれ、異邦人にも及ぶものでした。それは彼らが思いもしなかったことです。同じように、神はコリントに蒔く種を与え、それを増やし、心からの施しを生み、神への感謝の実をエルサレムに結びます。コリントの者たちも、自分を救う神からの恵みがこのように満ちあふれるとは思いもしなかった。ですがこのような恵みが主イエス・キリストから満ちあふれ、コリントの教会の者たちにも届けられたのです。
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主イエスはすべての人のために十字架で死んでくださいました。それは、この方に結ばれた私が、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためでした(5:15)。わたくしたちに届けられた神の恵みはわたくしたちを救い、人間の思いを超えて一人ひとりに及ぼされます。わたくしたちは、満ちあふれる神の恵みを礼拝毎に受け止め、さらなる一人の救いのため祈ります。