主はご自身とご自身の民との関係を、結婚した夫婦になぞらえて確認します。「わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。イスラエルは主にささげられたもの、収穫の初穂であった。」主は親密であったその歩みを思い起こします。それは、主がその姿勢をなお保ち、この民に呼び掛け、関わってゆくからです。
ところがこの民は、自分たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出したこの御方を捨て、神ではないものと取り替えてしまった。主は言います。「彼らは空しいものの後を追い、空しいものとなってしまった」。この民にとって「生ける水の源であるわたしを捨てて」しまった。民は水をためる水溜めを別に掘る。ですが、主によるとそれは「水をためることのできない、こわれた水溜め」でしかない。そこには生ける水を引き込むこともためることもできないのです。
民は預言者を剣の餌食とし、主が語る言葉に聞かない。しかし主はなお、この民に呼び掛けます。主はこの民の生ける水の源であり、この民の旅路をなお導く万軍の主、この民の栄光なのです。そしてついに主は、死んだ者を呼び起こし、無から命を造る造り主としての言葉を、十字架で処刑された御子イエスを死から復活させて、響かせてくださいました。今や主は、この呼び掛けの前にわたくしたちを招き、神の民の一員として迎え、さらなる者へと顔を向けてゆかれます。
この主は、わたくしたちをこれまでの歩み、主のものではない歩みから導き出すばかりではありません。生ける水の源である主を知らぬ歩みから導き出して、それで放って置かれるのではありません。なおわたくしたちのゆくべき道を先立ってゆかれるのであり、わたくしたちに語り掛け、導いてくださいます。教会は、この主の後に従い、なお生ける水の源として呼び掛ける神の言葉に留まって聞き、この源から水を飲むのです。