2018年11月18日日曜日

「留まって聞く神の言葉」エレミヤ書 2

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しゅはご自身じしんとご自身じしんたみとの関係かんけいを、結婚けっこんした夫婦ふうふになぞらえて確認かくにんします。「わたしは、あなたのわかいときの真心まごころ花嫁はなよめのときのあい種蒔たねまかれぬでの従順じゅうじゅんおもこす。イスラエルはしゅにささげられたもの、収穫しゅうかく初穂はつほであった。」しゅ親密しんみつであったそのあゆみをおもこします。それは、しゅがその姿勢しせいをなおたもち、このたみけ、かかわってゆくからです。
ところがこのたみは、自分じぶんたちをエジプトの奴隷どれいいえからみちびしたこの御方おかたて、かみではないものとえてしまった。しゅいます。「かれらはむなしいもののあとい、むなしいものとなってしまった」。このたみにとって「けるみずみなもとであるわたしをてて」しまった。たみみずをためる水溜みずためをべつる。ですが、しゅによるとそれは「みずをためることのできない、こわれた水溜みずため」でしかない。そこにはけるみずむこともためることもできないのです。
たみ預言者よげんしゃつるぎ餌食えじきとし、しゅかた言葉ことばかない。しかししゅはなお、このたみけます。しゅはこのたみけるみずみなもとであり、このたみ旅路たびじをなおみちび万軍まんぐんしゅ、このたみ栄光えいこうなのです。そしてついにしゅは、んだものこし、からいのちつくつくぬしとしての言葉ことばを、十字架じゅうじか処刑しょけいされた御子みこイエスをから復活ふっかつさせて、ひびかせてくださいました。いましゅは、このけのまえにわたくしたちをまねき、かみたみ一員いちいんとしてむかえ、さらなるものへとかおけてゆかれます。
このしゅは、わたくしたちをこれまでのあゆみ、しゅのものではないあゆみからみちびすばかりではありません。けるみずみなもとであるしゅらぬあゆみからみちびして、それでほうってかれるのではありません。なおわたくしたちのゆくべきみち先立さきだってゆかれるのであり、わたくしたちにかたけ、みちびいてくださいます。教会きょうかいは、このしゅあとしたがい、なおけるみずみなもととしてけるかみ言葉ことばとどまってき、このみなもとからみずむのです。