2018年7月1日日曜日

「すべて人を造り上げるため」コリントの信徒への手紙一 14:20-40

ひとだれでも、自分じぶんという存在そんざい価値かち見出みいだされ、この価値かち自分じぶんでも肯定こうていできることをねがいます。わたくしたちは、自分じぶん価値かちなきものながらっていくことなど、むずかしい。肯定こうていできる自分じぶん価値かち見出みいだしたいのであり、自己肯定感じここうていかんたいのです。しかしその自分じぶんができることといえば、価値かちあるものを獲得かくとく所有しょゆうすることで、自分じぶん肯定こうていしようとするばかりです。
出来できなかったことが出来できるようになったり、価値かちある作品さくひんしたり、偉業いぎょう達成たっせいしたり。そうやってぶんが、価値かちあるものをっているゆえに、っている自分じぶん肯定こうていするになります。ただそこでは、「っているからすごい」「ないからすごくない」といった評価ひょうか基準きじゅんとなります。だからもっと価値かちるようもっと獲得かくとくしもっと所有しょゆうすることへとかいます。自分じぶん所有しょゆうする価値かちで、肯定感こうていかんたそうとします。わたくしたちには自己じこ肯定感こうていかん必要ひつようだからです。
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かみたいするわたくしたちの姿勢しせい同様どうようです。しんじてなんえきがあるか。そううわたくしたちは、価値かちあるなにかを獲得かくとくできるかいなかで、しんじるかいなめているようなものです。そこでかな価値かちある神々かみがみもとめ、どこまでも偶像ぐうぞうつくします。わたくしたちには自己肯定感じここうていかん必要ひつようだからです。
けれども、わたくしたちにたいするかみ姿勢しせいはこれとことなります。わたくしたちがなにっているから、かみはわたくしたちの価値かちみとめるのではない。このかたはわたくしたちのつくぬしです。
かみはわたくしたちの存在そんざいつくった責任せきにんをどこまでもいます。そしてわたくしたちのにさえ勝利しょうりしてわたくしたちを存在そんざいさせるかみであるということを、かみ御子みこイエスをからふっかつさせあかししました。じつにわたくしたちは、この存在そんざいそのものを価値かちありと肯定こうていしてくれるかたたしかにいるから、自分じぶんという存在そんざい価値かちれられるのです。このおかたがおられることをたしかにし、わたくしたちをたしかにつくげる、礼拝れいはいとどけられています。