人は誰でも、自分という存在の価値を見出され、この価値を自分でも肯定できることを願います。わたくしたちは、自分を価値なき者と見ながら立っていくことなど、難しい。肯定できる自分の価値を見出したいのであり、自己肯定感を得たいのです。しかしその自分ができることといえば、価値あるものを獲得し所有することで、自分を肯定しようとするばかりです。
出来なかったことが出来るようになったり、価値ある作品を生み出したり、偉業を達成したり。そうやって自分が、価値あるものを持っているゆえに、持っている自分を肯定する気になります。ただそこでは、「持っているからすごい」「ないからすごくない」といった評価が基準となります。だからもっと価値が出るようもっと獲得しもっと所有することへと向かいます。自分が所有する価値で、肯定感を満たそうとします。わたくしたちには自己肯定感が必要だからです。
神に対するわたくしたちの姿勢も同様です。信じて何の益があるか。そう問うわたくしたちは、価値ある何かを獲得できるか否かで、信じるか否か決めているようなものです。そこで時宜に適う価値ある神々を求め、どこまでも偶像を作り出します。わたくしたちには自己肯定感が必要だからです。
けれども、わたくしたちに対する神の姿勢はこれと異なります。わたくしたちが何か持っているから、神はわたくしたちの価値を認めるのではない。この方はわたくしたちの造り主です。
神はわたくしたちの存在を造った責任をどこまでも負います。そしてわたくしたちの死にさえ勝利してわたくしたちを存在させる神であるということを、神は御子イエスを死から復活させ証ししました。実にわたくしたちは、この存在そのものを価値ありと肯定してくれる方が確かにいるから、自分という存在の価値を受け入れられるのです。このお方がおられることを確かにし、わたくしたちを確かに造り上げる、礼拝が届けられています。