「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。これは、ある試練を経て、しかし一つ大きな山を乗り越えさせていただいたことで言える言葉です。大きな災害にあって、なお立ち尽くすほかない中では、とてもこうは言えないと思います。ただそれでも、神さまはわたくしたちに対し真実であり、そう言うことのできる日へと、ここから向かわせてくださいます。
パウロも、試練を経ながら、しかしそう言うに至らせられました。ただ彼は自分の労苦をここであげず、自らの非を語ります。かつて「わたしは神の教会を迫害した」。パウロにとっては今も負い目がなくなった訳ではありません。彼を責める者がまだいた。それでもパウロは、神が恵みによってなおわたしを立たせてくださる、という信頼に自らをかけます。負い目がありますから、パウロが立てるのは、そこしかありません。そして、この神の恵みに立たせていただくのです。
コリントの者たちは自分が神の恵みによって立つと認めていなかった訳ではありません。ただ、現れて見えたのは、「わたしは持っている」と高ぶる姿です。「偶像に備えられた肉を食べても、汚れる訳ではない。そう正しく言える知識を持っている」。「異言を語り、他の人にはない霊的な賜物を持っている」。たしかに知識や霊的な賜物も、神の恵みによりいただく賜物です。ただ、パウロが彼らに据えた土台はキリストであり、彼らはこれによって立ってきたのでありました。
パウロは自分も受けて伝えた、キリストの死と復活と顕現とを確認します。これがわたくしたちにとって良い知らせ(福音)であるのは、死が最後のものでなくなったからです。わたくしたちは死を免れません。しかし神は、こちら側の思いもしなかった道をそこに拓き、わたくしたちの喜びを超えた喜びを現した。わたくしたちの見える限りのものを打ち破り、造り主の眼差しへとわたくしたちを生かす、この神の声が届けられたのです。