2018年7月15日日曜日

「よりどころとなる福音」コリントの信徒への手紙一 15:1-11

かみめぐみによって今日こんにちのわたしがあるのです」。これは、ある試練しれんて、しかしひとおおきなやまえさせていただいたことでえる言葉ことばです。おおきな災害さいがいにあって、なおくすほかないなかでは、とてもこうはえないとおもいます。ただそれでも、かみさまはわたくしたちにたい真実しんじつであり、そううことのできるへと、ここからかわせてくださいます。
パウロも、試練しれんながら、しかしそううにいたらせられました。ただかれ自分じぶん労苦ろうくをここであげず、みずからのかたります。かつて「わたしはかみ教会きょうかい迫害はくがいした」。パウロにとってはいまがなくなったわけではありません。かれめるものがまだいた。それでもパウロは、かみめぐみによってなおわたしをたせてくださる、という信頼しんらいみずからをかけます。がありますから、パウロがてるのは、そこしかありません。そして、このかみめぐみにたせていただくのです。
-->
コリントのものたちは自分じぶんかみめぐみによってつとみとめていなかったわけではありません。ただ、あらわれてえたのは、「わたしはっている」とたかぶる姿すがたです。「偶像ぐうぞうそなえられたにくべても、けがれるわけではない。そうただしくえる知識ちしきっている」。「異言いげんかたり、ほかひとにはない霊的れいてき賜物たまものっている」。たしかに知識ちしき霊的れいてき賜物たまものも、かみめぐみによりいただく賜物たまものです。ただ、パウロがかれらにえた土台どだいはキリストであり、かれらはこれによってってきたのでありました。
パウロは自分じぶんも受けて伝えた、キリストの復活ふっかつ顕現けんげんとを確認かくにんします。これがわたくしたちにとってらせ(福音ふくいん)であるのは、最後さいごのものでなくなったからです。わたくしたちはまぬかれません。しかしかみは、こちらがわおもいもしなかったみちをそこにひらき、わたくしたちのよろこびをえたよろこびをあらわした。わたくしたちのえるかぎりのものをやぶり、つくぬし眼差まなざしへとわたくしたちをかす、このかみこえとどけられたのです。