2018年6月3日日曜日

「今、このところから救いへ」コリントの信徒への手紙一 12:1-3

「イエスはしゅである」。それはなにか「今日きょうれです」とだれかに報告ほうこくするような、傍観者ぼうかんしゃとしてくちにする言葉ことばというよりも、いま、このところからわたしをすくしゅイエスとわたしとの、ってもれないまじわりを告白こくはくするものです。「イエスはしゅである」。弟子でしたちはこの告白こくはくによりがらされ、このしゅとのまじわりにあずかものがさらにおこされるよう、らせます。
弟子でしのペトロは、しゅイエスが十字架じゅうじかんだのも、から復活ふっかつさせられたのも、てきました。そのペトロも、「イエスはしゅである」とはわかっていませんでした。そのペトロが、「わたしが裏切うらぎり、わたしが十字架じゅうじかにつけてころしたイエスを、かみしゅとし、またメシア・キリストとなさった」との確信かくしんあたえられます(使徒言行録2:36)。聖霊せいれいそそがれ、こころうちに「イエスはしゅである」とれさせられた弟子でしたち。かれらはしゅであるイエスとのまじわりにかされはじめます。
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わたくしたちは自分じぶん自分じぶん主人しゅじんであるということが、自分じぶんおもどおなんでもできる理想りそう姿すがたかんがえるかもしれません。しかし自己じこ中心ちゅうしん我欲がよくかうなら、他者たしゃきずつけ、自身じしんのあるべき姿すがたをもそこないます。そこからすことも、自分じぶんではかないません。なんでもできるようでいて、成長せいちょうさまたげとなってしまいます。競技者きょうぎしゃ交流戦こうりゅうせんによってたがいに成長せいちょうあたえられるように、わたくしたちは自分自身じぶんじしんのあるべき姿すがたへとせいちょうさせる相手あいてとのまじわりが必要ひつようです。
かみさまはわたくしたちがご自身じしんかおまえにあるべきものとしてわたくしたちをつくりました。このかみがわたくしたちにべ、からいのちへとし、ご自身じしんのものとしてかしてくださいます。そのためかみ御子みこイエスをわたくしたちのしゅとし、わたくしたちをしもべとして、このしゅとのまじわりにかしてくださいます。いま、ここからすくぬしイエスをこころうちれる礼拝れいはいが、わたくしたちのところにまでとどけられてきました。