「イエスは主である」。それは何か「今日は晴れです」と誰かに報告するような、傍観者として口にする言葉というよりも、今、このところからわたしを救う主イエスとわたしとの、切っても切れない交わりを告白するものです。「イエスは主である」。弟子たちはこの告白により立ち上がらされ、この主との交わりに与る者がさらにおこされるよう、告げ知らせます。
弟子のペトロは、主イエスが十字架で死んだのも、死から復活させられたのも、見てきました。そのペトロも、「イエスは主である」とは判っていませんでした。そのペトロが、「わたしが裏切り、わたしが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシア・キリストとなさった」との確信を与えられます(使徒言行録2:36)。聖霊を注がれ、心の内に「イエスは主である」と受け入れさせられた弟子たち。彼らは主であるイエスとの交わりに生かされ始めます。
わたくしたちは自分が自分の主人であるということが、自分の思い通り何でもできる理想の姿と考えるかもしれません。しかし自己中心で我欲に向かうなら、巻き込む他者を傷つけ、自身のあるべき姿をも損います。そこから抜け出すことも、自分ではかないません。何でもできるようでいて、成長の妨げとなってしまいます。競技者が交流戦によって互いに成長を与えられるように、わたくしたちは自分自身のあるべき姿へと成長させる相手との交わりが必要です。
神さまはわたくしたちがご自身の顔の前にあるべき者としてわたくしたちを造りました。この神がわたくしたちに手を差し伸べ、死から命へと引き出し、ご自身のものとして生かしてくださいます。そのため神は御子イエスをわたくしたちの主とし、わたくしたちをしもべとして、この主との交わりに生かしてくださいます。今、ここから救い主イエスを心の内に受け入れる礼拝が、わたくしたちのところにまで届けられてきました。