2018年6月10日日曜日

「いつまでも残る愛」コリントの信徒への手紙一12:31b-13:13

信仰しんこうと、希望きぼうと、あい、このみっつは、いつまでものこる。そのなかもっとおおいなるものは、あいである」。信仰しんこう希望きぼうあい。これはかみさまとのまじわりです。つくぬしなるかみさま、てんちちなるかみさまとわたくしたちとのまじわりです。ちちなるかみさまがあたえてくださったこのまじわりに、わたくしたちがいつまでもとどまるよう、しゅイエスは最後さいごまでしっかりとささえてくださいます(1:8)。
しゅイエスこそが、わたくしたちをあいし、えてわたくしたちをこし、ご自身じしんちちなるかみさまとのまじわりのうちに、わたくしたちをせてくださいます。ここでのあいは、キリストにあらわされた、かみあいです。しゅイエス・キリストが、十字架じゅうじかみずからのいのちをささげ、わたくしたちをあいしてくださいました。そのいのちによって、わたくしたちがかされ、わたくしたちをかみのものとする身代金みのしろきんとして、キリストはわたくしたちのためにんでくださったのです(7:23)。

それがまことにそうだ、というかみ宣言せんげんとして、かみさまは、十字架じゅうじかんだ御子みこキリストを、死者ししゃなかから復活ふっかつさせました。ここにかみさまは、みずからのひとわたしてまで、わたくしたちをかみとしようとするてんちちとしてのかおあらわし、おつくりになった一人ひとりひとりをあいつくぬしであることを、あかししてくださったのです。復活ふっかつさせられたキリストはこの御父おんちちかおまえにある御子みことしての姿すがたあらわし、このまじわりにあずか礼拝れいはいへとわたくしたちをむかえてくださいます。
そして、しゅイエス・キリストのてくださる、わたくしたちはかおかおわせてかみることになる。それはたかぶるためではありません。もう、そんなおもいはすたれてどうでもくなってしまっています。かみさまが、このぶんすべれてくれた。くるしみも、なやみもかなしみも、全部ぜんぶり、そこにともにいてくださった。もうそこには、だれねたみもありません。だれ自慢じまんも、苛立いらだちも、うらみも。いつまでものこるのはあい、このかみとのまじわりです。