2018年5月13日日曜日

「造り主の前にあるわたし」コリントの信徒への手紙一 11:2-16

わたくしたちはみな母親ははおやからまれます。ただそのはじまりとして聖書せいしょは、かみおとこアダムからったあばらほねおんなエバをつくったといます(創世記2:22)。これによりパウロはいます。「しゅにおいては、おとこなしにおんなはなく、おんななしにおとこはありません。それはおんなおとこからたように、おとこおんなからまれ、また、すべてのものがかみからているからです」。
「すべてのものは、かみからて、かみによってたもたれ、かみかって」います(ローマ11:36)。わたくしたちは時代じだい制約せいやくのもとでせいけながら、キリストによって洗礼せんれいかみのものとされ、かみまえ栄光えいこうあらわものとしてあゆみます。そこではおとこおんなもありません(ガラテヤ3:28)。つくぬしまえにある「わたし」として、によってもさまたげられないまじわりをあたえられています。そのあかしとして、キリストは十字架じゅうじかから復活ふっかつさせられ、かみ栄光えいこうあらしてくださいました。
ただそのわたくしたちのあゆみはなお時代じだい制約下せいやくかにあります。そこでいが問題もんだいとなり、周囲しゅうい偶像ぐうぞう問題もんだいとなります。パウロはそこでよわ人々ひとびとへの配慮はいりょ(8:9)をもとめ、礼拝れいはいにおける男女だんじょ秩序ちつじょ同様どうようます。「おとこはだれでもいのったり、預言よげんしたりするさいに、あたまものをかぶるなら、自分じぶんあたま侮辱ぶじょくすることになります。おんなはだれでもいのったり、預言よげんしたりするさいに、あたまものをかぶらないなら、そのあたま侮辱ぶじょくすることになります」。そういう時代じだいへの配慮はいりょもとめます。
それは、この制約下せいやくかにある兄弟きょうだいをキリストのものとしてるためです(9:22)。この兄弟きょうだいかみからているのであり、かみさまはこの兄弟きょうだいをもご自身じしんかおまえらししてくださいます。地上ちじょうにおけるかみへの礼拝れいはいは、時代じだい制約せいやくけつつも、その一人ひとりひとりをあゆみとしてわたくしたちにもとどけられました。いまかみさまは、ともつくぬしまえにある「わたし」としてわたくしたちをもまねき、ご自身じしんかがやきをうつしておられます。