わたくしたちは皆、母親から生まれます。ただその始まりとして聖書は、神が男アダムから抜き取ったあばら骨で女エバを造ったと言います(創世記2:22)。これによりパウロは言います。「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです」。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かって」います(ローマ11:36)。わたくしたちは時代の制約のもとで生を受けながら、キリストによって洗礼を受け神のものとされ、神の前に栄光を現す者として歩みます。そこでは男も女もありません(ガラテヤ3:28)。造り主の前にある「私」として、死によっても妨げられない交わりを与えられています。その証しとして、キリストは十字架の死から復活させられ、神は栄光を現してくださいました。
ただそのわたくしたちの歩みはなお時代の制約下にあります。そこで飲み食いが問題となり、周囲の偶像が問題となります。パウロはそこで弱い人々への配慮(8:9)を求め、礼拝における男女の秩序も同様と見ます。「男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」。そういう時代への配慮を求めます。
それは、この制約下にある兄弟をキリストのものとして得るためです(9:22)。この兄弟も神から出ているのであり、神さまはこの兄弟をもご自身の顔の前に照らし出してくださいます。地上における神への礼拝は、時代の制約を受けつつも、その一人ひとりを得る歩みとしてわたくしたちにも届けられました。今や神さまは、共に造り主の前にある「私」としてわたくしたちをも招き、ご自身の輝きを映し出しておられます。