パウロは「弱い人」のようになります。たしかに、わたくしたちは食物によって神のもとに導かれるのではない。ただ「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚される」。だから兄弟を躓かせるくらいなら、自分は今後決して肉を口にしない、と。
天の父なる神さまはわたくしたちをご自身のもとに招き、神の愛する子としてわたくしたちを生かします。けれどもわたくしたちは、まるでそうではないかのように自分をも他人をもみなします。ときに神との間に知識や行いを置いて神の前に正しくあろうとする。しかしそれによって神の前に立てるのではありません。また、偶像に供えられた肉を食べる「強い人」を見て躓いてしまい、神を見失ってしまう。しかしそれで神が見捨てたのでも、お終いになるのでもありません。
御子キリストは、十字架の死という呪われた死を負わされます。神から引き離そうとする人間の手が、躓きの石を置いたのです。御子はそのまま死んでしまいます。ですが神さまは、わたくしたち人間の思いを覆し、この御子を復活させてくださいました。神は御子の復活を証しし、わたくしたちとご自身との間に、死さえも隔たりとならないことを示します。実に、神は十字架の死において自らを差し出し、躓きを越え得ないわたくしたちと同じくなってくださったのです。
たとえ、わたくしたちが躓き、神を見失い、神に見捨てられ滅んでお終いだと見えても、このわたくしたちを、復活の主キリストがとらえてくださいます。このお方こそ、わたくしたちを神のもとに導き、神の愛する子として造り上げてくださいます。もはやキリストにあって、神との関係を妨げられるものはありません。今や御子は礼拝においてわたくしたちをご自身の手の中に置き、神さまとの交わりに与らせてくださいます。