2018年3月4日日曜日

「キリストはとらえてくださる」コリントの信徒への手紙一 8:7-13

パウロは「(よわ)(ひと)」のようになります。たしかに、わたくしたちは(しょく)(もつ)によって(かみ)のもとに(みちび)かれるのではない。ただ「ある(ひと)たちは、(いま)までの偶像(ぐうぞう)になじんできた習慣(しゅうかん)にとらわれて、(にく)()べる(さい)に、それが偶像(ぐうぞう)(そな)えられた(にく)だということが念頭(ねんとう)から()らず、良心(りょうしん)(よわ)いために(けが)される」。だから兄弟(きょうだい)(つまず)かせるくらいなら、自分は今後(こんご)(けっ)して(にく)(くち)にしない、と。
(てん)(ちち)なる(かみ)さまはわたくしたちをご自身(じしん)のもとに(まね)き、(かみ)(あい)する()としてわたくしたちを()かします。けれどもわたくしたちは、まるでそうではないかのように自分(じぶん)をも他人(たにん)をもみなします。ときに(かみ)との(あいだ)知識(ちしき)(おこな)いを()いて(かみ)(まえ)(ただ)しくあろうとする。しかしそれによって(かみ)(まえ)()てるのではありません。また、(ぐう)(ぞう)(そな)えられた(にく)()べる「(つよ)(ひと)」を見て(つまず)いてしまい、(かみ)見失(みうしな)ってしまう。しかしそれで(かみ)見捨(みす)てたのでも、お(しま)いになるのでもありません。
御子みこキリストは、十字架じゅうじかというのろわれたわされます。かみからはなそうとする人間にんげんが、つまずきのいしいたのです。御子みこはそのままんでしまいます。ですがかみさまは、わたくしたち人間にんげんおもいをくつがえし、この御子みこ復活ふっかつさせてくださいました。かみ御子みこ復活ふっかつあかしし、わたくしたちとご自身じしんとのあいだに、さえもへだたりとならないことをしめします。じつに、かみ十字架じゅうじかにおいてみずからをし、つまずきをないわたくしたちとおなじくなってくださったのです。
たとえ、わたくしたちが(つまず)き、(かみ)見失(みうしな)い、(かみ)見捨(みす)てられ(ほろ)んでお(しま)いだと()えても、このわたくしたちを、復活(ふっかつ)(しゅ)キリストがとらえてくださいます。このお(かた)こそ、わたくしたちを(かみ)のもとに(みちび)き、(かみ)(あい)する()として(つく)()げてくださいます。もはやキリストにあって、(かみ)との関係(かんけい)(さまた)げられるものはありません。(いま)御子(みこ)礼拝(れいはい)においてわたくしたちをご自身(じしん)()(なか)()き、(かみ)さまとの(まじ)わりに(あずか)らせてくださいます。