2018年3月18日日曜日

「あなたがあなたであるため」コリントの信徒への手紙一 9:1-27

誰(だれ)にとっても、自分(じぶん)の居場所(いばしょ)がなくてはなりません。わたくしたちは「お前(まえ)はここにいて良(よ)い」と言(い)ってもらえる所(ところ)が必要(ひつよう)です。そして造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)の顔(かお)の前(まえ)に抱(いだ)かれることが、最(もっと)も良(よ)い、朽(く)ちない永遠(えいえん)の居場所(いばしょ)です。「どこにいるのか」と神(かみ)さまはわたくしたちの主人(しゅじん)として呼(よ)び掛(か)け、全(すべ)てを知(し)った上(うえ)で、「お前(まえ)はここにいろ」とわたくしたちを迎(むか)え入(い)れてくださいます。
わたくしたちが本当(ほんとう)のわたくしたちとされる。それが神(かみ)の前(まえ)にある礼拝(れいはい)です。ただ、この神(かみ)を知(し)らなかったりこの主人(しゅじん)を忘(わす)れたりして、背(せ)を向(む)けて歩(あゆ)むことがあります。そこでもはや神(かみ)に顔向(かおむ)けできず、罪(つみ)の内(うち)に自分(じぶん)を閉(と)じ込(こ)めてしまう。わたくしたちは他(ほか)に居(い)場所(ばしょ)を求(もと)めますが、どれも朽(く)ちゆく主(しゅ)人(じん)に過(す)ぎず、最後(さいご)の最後(さいご)、わたくしたちの命(いのち)の責任(せきにん)を負(お)い切(き)れません。この、神(かみ)なしでなお生(い)きようとするわたくしたちの罪(つみ)のゆえ、主(しゅ)イエスは十字(じゅうじ)架(か)で死(し)なねばなりませんでした。
神(かみ)の子(こ)の顔(かお)を剥(は)ぎ取(と)られ、十字架(じゅうじか)で殺(ころ)された主(しゅ)イエスを、しかし神(かみ)は復活(ふっかつ)させました。神(かみ)は死(し)という隔(へだ)たりを越(こ)え、この御子(みこ)を父(ちち)の顔(かお)の前(まえ)にある子(こ)としたのです。御子(みこ)は弟子(でし)たちにご自身(じしん)を現(あらわ)し、死(し)すべき人間(にんげん)がなお拠(よ)って立(た)ち得(う)る顔(かお)を現(あらわ)してくださいました。わたくしたちは、この御子(みこ)のしもべとして罪(つみ)の囚(とら)われから買(か)い取(と)られ、この御子(みこ)により神(かみ)の顔(かお)の前(まえ)に居場所(いばしょ)を得(え)ます。この福音(ふくいん)(喜(よろこ)びのおとずれ)に共(とも)に与(あずか)るため、パウロはコリントに使徒(しと)として遣(つか)わされました。
パウロの働(はたら)きの報酬(ほうしゅう)は、コリントの者(もの)たちが主(しゅ)に結(むす)ばれているという喜(よろこ)びです。彼(かれ)らが彼(かれ)らであるため働(はたら)くパウロは、彼(かれ)らが共(とも)に福音(ふくいん)に与(あずか)ることで、使徒(しと)パウロとなります。
今(いま)や、このキリストの福音(ふくいん)を告(つ)げ知(し)らせる礼拝(れいはい)がわたくしたちの所(ところ)にまで届(とど)けられました。この礼拝(れいはい)にわたくしたちが招(まね)かれています。わたくしたちへと福音(ふくいん)を届(とど)けた礼拝(れいはい)の先人(せんじん)たちにとって一番(いちばん)の喜(よろこ)びは、共(とも)に主(しゅ)に結(むす)ばれ、福音(ふくいん)に与(あずか)ることなのです。