誰にとっても、自分の居場所がなくてはなりません。わたくしたちは「お前はここにいて良い」と言ってもらえる所が必要です。そして造り主なる神の顔の前に抱かれることが、最も良い、朽ちない永遠の居場所です。「どこにいるのか」と神さまはわたくしたちの主人として呼び掛け、全てを知った上で、「お前はここにいろ」とわたくしたちを迎え入れてくださいます。
わたくしたちが本当のわたくしたちとされる。それが神の前にある礼拝です。ただ、この神を知らなかったりこの主人を忘れたりして、背を向けて歩むことがあります。そこでもはや神に顔向けできず、罪の内に自分を閉じ込めてしまう。わたくしたちは他に居場所を求めますが、どれも朽ちゆく主人に過ぎず、最後の最後、わたくしたちの命の責任を負い切れません。この、神なしでなお生きようとするわたくしたちの罪のゆえ、主イエスは十字架で死なねばなりませんでした。
神の子の顔を剥ぎ取られ、十字架で殺された主イエスを、しかし神は復活させました。神は死という隔たりを越え、この御子を父の顔の前にある子としたのです。御子は弟子たちにご自身を現し、死すべき人間がなお拠って立ち得る顔を現してくださいました。わたくしたちは、この御子のしもべとして罪の囚われから買い取られ、この御子により神の顔の前に居場所を得ます。この福音(喜びのおとずれ)に共に与るため、パウロはコリントに使徒として遣わされました。
パウロの働きの報酬は、コリントの者たちが主に結ばれているという喜びです。彼らが彼らであるため働くパウロは、彼らが共に福音に与ることで、使徒パウロとなります。
今や、このキリストの福音を告げ知らせる礼拝がわたくしたちの所にまで届けられました。この礼拝にわたくしたちが招かれています。わたくしたちへと福音を届けた礼拝の先人たちにとって一番の喜びは、共に主に結ばれ、福音に与ることなのです。