パウロは言います。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」と。神さまは、わたくしたちの本当のところを全て知った上で、わたくしたちを礼拝へと招きます。神がこの私のことを全部知っている。それがわたくしたちにとっても幸いです。もし神が私の隠しごとを知らないなら、その本当の私を知って、神さまは私を愛してくれるでしょうか。
「それでも神は私を愛する」とわたくしたちには断言できません。断言できるような神を、わたくしたちはそこで知ってはいません。私が自分を隠したままでも神は私を愛すると考えるなら、わたくしたちはなお神を愛していないことになります。「わたしの足など、決して洗わないでください」と主イエスに言うペトロに対し主は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えます(ヨハネ13:8)。
むしろ、神が私の全てを知った上でこの私を礼拝に迎えたのであり、神がこの私を愛し抜いてくださる、と喜んで受け入れたいと願います。神に愛され、神を愛する礼拝において、天の父なる神の前にある私が造り上げられます。実に、御子を十字架の死へと追い込んだのは、神の前にもう立てないようにするためです。彼らは御子を侮辱します。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから(マタイ27:43)」。
神を知っているかのようにして、神の前から相手を引きずりおろそうとする、その人間の思惑とは異なり、神はなお、お造りになった者をご自身の前におらせます。御父はなお御子を前にしています。その証しとして神は御子を死者の中から復活させました。神はわたくしたちを愛するため、礼拝へとわたくしたちを迎え、御子の復活を告げ知らせます。神はこの御子によってわたくしたちをご自身の顔の前に存在する者としてくださるのです。