2018年2月25日日曜日

「愛は人を造り上げる」コリントの信徒への手紙一 8:1-6

パウロは()います。「(かみ)(あい)する(ひと)がいれば、その(ひと)(かみ)()られている」と。(かみ)さまは、わたくしたちの本当(ほんとう)のところを(すべ)()った(うえ)で、わたくしたちを礼拝(れいはい)へと(まね)きます。(かみ)がこの(わたし)のことを全部(ぜんぶ)()っている。それがわたくしたちにとっても(さいわ)いです。もし(かみ)(わたし)(かく)しごとを()らないなら、その本当(ほんとう)(わたし)()って、(かみ)さまは(わたし)(あい)してくれるでしょうか。
「それでも(かみ)(わたし)(あい)する」とわたくしたちには断言(だんげん)できません。断言(だんげん)できるような(かみ)を、わたくしたちはそこで()ってはいません。(わたし)自分(じぶん)(かく)したままでも(かみ)(わたし)(あい)すると(かんが)えるなら、わたくしたちはなお(かみ)(あい)していないことになります。「わたしの(あし)など、(けつ)して(あら)わないでください」と(しゅ)イエスに()うペトロに(たい)(しゅ)は「もしわたしがあなたを(あら)わないなら、あなたはわたしと(なん)のかかわりもないことになる」と(こた)えます(ヨハネ13:8)。
むしろ、かみわたしすべてをったうえでこのわたし礼拝れいはいむかえたのであり、かみがこのわたしあいいてくださる、とよろこんでれたいとねがいます。かみあいされ、かみあいする礼拝れいはいにおいて、てんちちなるかみまえにあるわたしつくげられます。じつに、御子みこ十字架じゅうじかへとんだのは、かみまえにもうてないようにするためです。かれらは御子みこ侮辱ぶじょくします。「かみたよっているが、かみ御心みこころならば、いますぐすくってもらえ。『わたしはかみだ』とっていたのだから(マタイ27:43)」。
(かみ)()っているかのようにして、(かみ)(まえ)から相手(あいて)()きずりおろそうとする、その人間(にんげん)思惑(おもわく)とは(こと)なり、(かみ)はなお、お(つく)りになった(もの)をご自身(じしん)(まえ)におらせます。御父(おんちち)はなお御子(みこ)(まえ)にしています。その(あか)しとして(かみ)()()死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。(かみ)はわたくしたちを(あい)するため、礼拝(れいはい)へとわたくしたちを(むか)え、御子(みこ)復活(ふっかつ)()()らせます。(かみ)はこの御子(みこ)によってわたくしたちをご自身(じしん)(かお)(まえ)存在(そんざい)する(もの)としてくださるのです。