パウロは言います。「人は現状にとどまっているのがよい」。その現状とは、独身でいるにせよ、結婚しているにせよ、婚約しているにせよ、そうあるよう召した主の声に聞き続けることです(24)。造り主なる神は、わたくしたちがどの立場にあってもご自身のものであるよう呼び掛けます。「どこにいるのか。お前はわたしのものだ。わたしのもとにいろ」と。
真心をもってわたくしたちを受け入れる、この神の召しに応える礼拝の歩みを、パウロは、聖なる者としての品位のある生活と言います(35)。そこでは何か、自分の努力で聖なる者となるよう求めたり無理な禁欲を求めたりしません。キリストが、わたくしたちを聖なる者・神のものとしてくださいます。このキリストがわたくしたちの主です。世にあって委ねられた生活においても、主の喜びのためにわたくしたちは心を遣います。主のことは世の事と別々ではありません。
神は、どこまでもわたくしたちをご自身のもの・聖なる者にします。そこに二心はありません。この方は造り主です。一方、人を聖なる者でなくそうとするのはわたくしたち人間です。キリストは、聖なる者でなくそうと引きずり下ろされねばならず、神の子ではない証しとして十字架で殺されねばなりませんでした。しかしそうやって殺されたキリストを、神は復活させました。わたくしたちをご自身のもの・聖なる者とする神の力は、わたくしたちに勝り、死にさえ勝るのです。
造り主なる神の、わたくしたちへのこの呼び掛けを、今や神さまは主イエス・キリストの復活を証しすることでわたくしたちへと届けます。わたくしたちはキリストの名によって洗礼を受け、「お前はわたしのもの」との神からのしるしを頂きます。また繰り返し聖餐に与り、神の呼び掛けに応えます。この礼拝の歩みにおいては、独身も結婚も婚約もそれぞれの生活が、わたしを聖とする神の喜びを映し出す器として用いられるのです。