2018年2月18日日曜日

「真心から受け入れる神」コリントの信徒への手紙一 7:25-40

パウロは()います。「(ひと)現状(げんじょう)にとどまっているのがよい」。その現状(げんじょう)とは、独身(どくしん)でいるにせよ、結婚(けっこん)しているにせよ、婚約(こんやく)しているにせよ、そうあるよう()した(しゅ)(こえ)()(つづ)けることです(24)。(つく)(ぬし)なる(かみ)は、わたくしたちがどの立場(たちば)にあってもご自身(じしん)のものであるよう()()けます。「どこにいるのか。お(まえ)はわたしのものだ。わたしのもとにいろ」と。
真心(まごころ)をもってわたくしたちを()()れる、この(かみ)()しに(こた)える礼拝(れいはい)(あゆ)みを、パウロは、(せい)なる(もの)としての品位(ひんい)のある生活(せいかつ)()います(35)。そこでは(なに)か、自分(じぶん)努力(どりょく)(せい)なる(もの)となるよう(もと)めたり無理(むり)禁欲(きんよく)(もと)めたりしません。キリストが、わたくしたちを(せい)なる(もの)(かみ)のものとしてくださいます。このキリストがわたくしたちの(しゅ)です。()にあって(ゆだ)ねられた生活(せいかつ)においても、(しゅ)(よろこ)びのためにわたくしたちは(こころ)(つか)います。(しゅ)のことは()(こと)別々(べつべつ)ではありません。
(かみ)は、どこまでもわたくしたちをご自身(じしん)のもの・(せい)なる(もの)にします。そこに二心(ふたごころ)はありません。この(かた)(つく)(ぬし)です。一方(いっぽう)(ひと)(せい)なる(もの)でなくそうとするのはわたくしたち人間(にんげん)です。キリストは、(せい)なる(もの)でなくそうと()きずり()ろされねばならず、(かみ)()ではない(あか)しとして十字架(じゅうじか)(ころ)されねばなりませんでした。しかしそうやって(ころ)されたキリストを、(かみ)復活(ふっかつ)させました。わたくしたちをご自身(じしん)のもの・(せい)なる(もの)とする(かみ)(ちから)は、わたくしたちに(まさ)り、()にさえ(まさ)るのです。
(つく)(ぬし)なる(かみ)の、わたくしたちへのこの()()けを、(いま)(かみ)さまは(しゅ)イエス・キリストの復活(ふっかつ)(あか)しすることでわたくしたちへと(とど)けます。わたくしたちはキリストの()によって洗礼(せんれい)()け、「お(まえ)はわたしのもの」との(かみ)からのしるしを(いただ)きます。また()(かえ)聖餐(せいさん)(あずか)り、(かみ)()()けに(こた)えます。この礼拝(れいはい)(あゆ)みにおいては、独身(どくしん)結婚(けっこん)婚約(こんやく)もそれぞれの生活(せいかつ)が、わたしを(せい)とする(かみ)(よろこ)びを(うつ)()(うつわ)として(もち)いられるのです。