パウロは言います。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。
これはわたくしたちが願うことに反するかもしれませんが、わたくしたちは「わたしを救う神がおられる」と自分が知りそこに新たに命を得ようとしながらも、しかし自分の側からこの神を知ることはかないません。
こちらからはかなわないので、神の側からわたくしたちの方へ知らせてもらうのみです。わたくしたちの側から知ることができる神は、自分たちで作り出したものに過ぎません。人の知恵において宗教と呼ぶような何ものかは偶像を崇める他ないのです。
もし知ることができたとしてもそれは、万物の根源に、無から有を生み出した造り主の影を見るくらいです。それがわたしを救う神としておられることを、わたくしたちは自分の側から知ることはなおかないません。
わたくしたちは死んで終わる命を生きる他なく、死に至る絶望から逃れる知恵を持たないという現実に直面します。また、見たくないので、死すべき自分が何者なのか問うことを止め、諦めてしまいます。ただそれで、自分がなお苦しみながら生きていく理由と価値がどこにあるでしょうか。
わたくしたちの魂は、わたしを救う神が確かにおられることを待っています。この神が、神の方からわたくしたちの魂へと語りかけてくださるのを切に待ち望んでいるのです。
パウロはそこで、十字架のキリストを指し示します。数ある十字架受刑者の中でこの方が特別なのは、この方が復活させられたからです。この方の十字架の死へと神が語りかけました。わたくしたちの根源であり、無から有を生み出した造り主なる神の言葉が語られました。人の知恵によっては達し得ない、神からのわたくしたちへの言葉が語られたのです。わたくしたちを救う神の力がここに示された。わたくしたちはここに命を得るのです。