2017年9月17日日曜日

「あなたを救う神の力」コリントの信徒への手紙一1:18-25

パウロは()います。「十字架(じゅうじか)言葉(ことば)は、(ほろ)んでいく(もの)にとっては(おろ)かなものですが、わたしたち(すく)われる(もの)には(かみ)(ちから)です」。
これはわたくしたちが(ねが)うことに(はん)するかもしれませんが、わたくしたちは「わたしを(すく)(かみ)がおられる」と自分(じぶん)()りそこに(あら)たに(いのち)()ようとしながらも、しかし自分(じぶん)(がわ)からこの(かみ)()ることはかないません。
こちらからはかなわないので、(かみ)(がわ)からわたくしたちの(ほう)()らせてもらうのみです。わたくしたちの(がわ)から()ることができる(かみ)は、自分(じぶん)たちで(つく)()したものに()ぎません。(ひと)知恵(ちえ)において宗教(しゅうきょう)()ぶような(なに)ものかは偶像(ぐうぞう)(あが)める(ほか)ないのです。
もし()ることができたとしてもそれは、万物(ばんぶつ)根源(こんげん)に、()から(ゆう)()()した(つく)(ぬし)(かげ)()るくらいです。それがわたしを(すく)(かみ)としておられることを、わたくしたちは自分(じぶん)(がわ)から()ることはなおかないません。
わたくしたちは()んで()わる(いのち)()きる(ほか)なく、()(いた)絶望(ぜつぼう)から(のが)れる知恵(ちえ)()たないという現実(げんじつ)直面(ちょくめん)します。また、()たくないので、()すべき自分(じぶん)何者(なにもの)なのか()うことを()め、(あきら)めてしまいます。ただそれで、自分(じぶん)がなお(くる)しみながら()きていく理由(りゆう)価値(かち)がどこにあるでしょうか。
わたくしたちの(たましい)は、わたしを(すく)(かみ)(たし)かにおられることを()っています。この(かみ)が、(かみ)(ほう)からわたくしたちの(たましい)へと(かた)りかけてくださるのを(せつ)()(のぞ)んでいるのです。
パウロはそこで、十字架(じゅうじか)のキリストを()(しめ)します。(かず)ある十字架(じゅうじか)受刑者(じゅけいしゃ)(なか)でこの(かた)特別(とくべつ)なのは、この(かた)復活(ふっかつ)させられたからです。この(かた)十字架(じゅうじか)()へと(かみ)(かた)りかけました。わたくしたちの根源(こんげん)であり、()から(ゆう)()()した(つく)(ぬし)なる(かみ)言葉(ことば)(かた)られました。(ひと)知恵(ちえ)によっては(たっ)()ない、(かみ)からのわたくしたちへの言葉(ことば)(かた)られたのです。わたくしたちを(すく)(かみ)(ちから)がここに(しめ)された。わたくしたちはここに(いのち)()るのです。