パウロがふたたびエフェソの町に滞在した時のことです(使徒言行録第19章)。パウロは二年そこにいましたが、コリントの町からやってきたクロエの家の人たちから、コリントの教会の者たちの様子を聞きます。この者たちが「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていた、というのです。
パウロは、コリントの教会の者たちに宛て手紙を送ります。「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」。パウロはこの者たちもまたキリストの名に固く結び合わされていることを確認させます。この名において語り、心も思いもキリストの名に結び合わされた者であるように。その絆はむなしくなることはありません。
たしかに、パウロをはじめコリントの
教会の者たちにも、具体的な人間の手によって洗礼が授けられました。けれどもそれは、主イエス・キリストに固く結び合わされるため、この方の十字架の死へと向かって、洗礼を授けられたのです。このお方が、わたくしたちの受けるべき十字架の死を遂げてくださったのであり、その死と一つとされるため、主はわたくしたちの受けるべき洗礼を受けてくださいました。わたくしたちは死を超えて主イエスと固く結び合わされています。
著名で有力な誰かではなく、雄弁で賜物豊かな誰かでもなく、キリストの名に固く結ばれていることにこそ、希望があります。「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(フィリピ2:9)」。わたくしたちは、この方によって神のものとされました。十字架で死に、わたくしたちの洗礼を受けてくれたこの方が、わたくしたちを死から復活させ、神のものとして新たに生かしてくださいます。