2017年9月3日日曜日

「むなしくなることのない絆」コリントの信徒への手紙一 1:10-17

パウロがふたたびエフェソの(まち)滞在(たいざい)した(とき)のことです(使徒言行録第19章)。パウロは二年(にねん)そこにいましたが、コリントの(まち)からやってきたクロエの(いえ)の人たちから、コリントの教会(きょうかい)(もの)たちの様子(ようす)()きます。この(もの)たちが「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと()()っていた、というのです。
パウロは、コリントの教会(きょうかい)(もの)たちに()手紙(てがみ)(おく)ります。「兄弟(きょうだい)たち、わたしたちの(しゅ)イエス・キリストの()によってあなたがたに勧告(かんこく)します。(みな)勝手(かって)なことを()わず、(なか)たがいせず、(こころ)(ひと)つにし(おも)いを(ひと)つにして、(かた)(むす)()いなさい」。パウロはこの(もの)たちもまたキリストの()(かた)(むす)()わされていることを確認(かくにん)させます。この()において(かた)り、(こころ)(おも)いもキリストの()(むす)()わされた(もの)であるように。その(きずな)はむなしくなることはありません。


たしかに、パウロをはじめコリントの教会きょうかいものたちにも、具体的ぐたいてき人間にんげんによって洗礼せんれいさずけられました。けれどもそれは、しゅイエス・キリストにかたむすわされるため、このかた十字架じゅうじかへとかって、洗礼せんれいさずけられたのです。このおかたが、わたくしたちのけるべき十字架じゅうじかげてくださったのであり、そのひとつとされるため、しゅはわたくしたちのけるべき洗礼せんれいけてくださいました。わたくしたちはえてしゅイエスとかたむすわされています。

著名(ちょめい)有力(ゆうりょく)(だれ)かではなく、雄弁(ゆうべん)賜物(たまもの)(ゆた)かな(だれ)かでもなく、キリストの()(かた)(むす)ばれていることにこそ、希望(きぼう)があります。「(かみ)はキリストを(たか)()げ、あらゆる()にまさる()をお(あた)えになりました(フィリピ2:9)」。わたくしたちは、この(かた)によって(かみ)のものとされました。十字架(じゅうじか)()に、わたくしたちの洗礼(せんれい)()けてくれたこの(かた)が、わたくしたちを()から復活(ふっかつ)させ、(かみ)のものとして(あら)たに()かしてくださいます。