パウロはコリントにある教会の人々へと書き送るにあたり、この者たちを「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」と呼びます。その一方で「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」と将来の約束を告げます。
すると、聖なる者とされながらも責められる点がある、ということになります。これは、キリストによって神のものとされ、いかに聖書に通じ、熱心であっても、わたくしたちは未だ完全な者ではないからです。ただ、「ならば、聖なる者かどうかなど、どうでもよい」というわけではありません。わたくしたちはやはり、造り主なる神のものとされ、この方との永遠の命の交わりに入れられるのが幸いです。父なる神さまはなお「わたしの子よ」と一人ひとりを呼んでくださいます。
これが幸いなのは、わたくしたちは神がどなたか知らないうちからも、叫ぶからです。いくら、神など求める必要のない知識を持っていたとしても、わたくしたちは心の奥底で、この身の造り主と命の交わりが与えられるよう求めています。わたくしたちへと呼び掛ける造り主の声に聴き、命を得ることが必要なのです。わたくしたちも、この神の声が届けられるのを求めている。そして父なる神さまはわたくしたちの叫びを聞いてくださいます(出エジプト2:23)。
造り主なるこのお方はわたくしたちを造っておしまいでなく、わたくしたちとの交わりを求め、一人ひとりの名を呼んでおられます。その証しとして、御子イエス・キリストは十字架の死から復活させられました。そしてわたくしたちへもその声を響かせるため、礼拝へと招いておられます。わたくしたちは非のうちどころのない者とされる日を目指しつつ、主イエス・キリストの現れを待ち望み、神の呼び声に応えてまいるのです。