2017年8月27日日曜日

「この叫びを聞いてくださる」コリントの信徒への手紙一1:1-9

パウロはコリントにある教会(きょうかい)の人々(ひとびと)へと書(か)き送(おく)るにあたり、この者(もの)たちを「キリスト・イエスによって聖(せい)なる者(もの)とされた人々(ひとびと)、召(め)されて聖(せい)なる者(もの)とされた人々(ひとびと)」と呼(よ)びます。その一方(いっぽう)で「主(しゅ)も最後(さいご)まであなたがたをしっかり支(ささ)えて、わたしたちの主(しゅ)イエス・キリストの日(ひ)に、非(ひ)のうちどころのない者(もの)にしてくださいます」と将来(しょうらい)の約束(やくそく)を告(つ)げます。
すると、聖(せい)なる者(もの)とされながらも責(せ)められる点(てん)がある、ということになります。これは、キリストによって神(かみ)のものとされ、いかに聖書(せいしょ)に通(つう)じ、熱心(ねっしん)であっても、わたくしたちは未(いま)だ完全(かんぜん)な者(もの)ではないからです。ただ、「ならば、聖(せい)なる者(もの)かどうかなど、どうでもよい」というわけではありません。わたくしたちはやはり、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)のものとされ、この方(かた)との永遠(えいえん)の命(いのち)の交(まじ)わりに入(い)れられるのが幸(さいわ)いです。父(ちち)なる神(かみ)さまはなお「わたしの子(こ)よ」と一人(ひとり)ひとりを呼(よ)んでくださいます。


これが幸(さいわ)いなのは、わたくしたちは神(かみ)がどなたか知(し)らないうちからも、叫(さけ)ぶからです。いくら、神(かみ)など求(もと)める必要(ひつよう)のない知識(ちしき)を持(も)っていたとしても、わたくしたちは心(こころ)の奥底(おくそこ)で、この身(み)の造(つく)り主(ぬし)と命(いのち)の交(まじ)わりが与(あた)えられるよう求(もと)めています。わたくしたちへと呼(よ)び掛(か)ける造(つく)り主(ぬし)の声(こえ)に聴(き)き、命(いのち)を得(え)ることが必要(ひつよう)なのです。わたくしたちも、この神(かみ)の声(こえ)が届(とど)けられるのを求(もと)めている。そして父(ちち)なる神(かみ)さまはわたくしたちの叫(さけ)びを聞(き)いてくださいます(出エジプト2:23)。
造(つく)り主(ぬし)なるこのお方(かた)はわたくしたちを造(つく)っておしまいでなく、わたくしたちとの交(まじ)わりを求(もと)め、一人(ひとり)ひとりの名(な)を呼(よ)んでおられます。その証(あか)しとして、御子(みこ)イエス・キリストは十字架(じゅうじか)の死(し)から復活(ふっかつ)させられました。そしてわたくしたちへもその声(こえ)を響(ひび)かせるため、礼拝(れいはい)へと招(まね)いておられます。わたくしたちは非(ひ)のうちどころのない者(もの)とされる日(ひ)を目指(めざ)しつつ、主(しゅ)イエス・キリストの現(あらわ)れを待(ま)ち望(のぞ)み、神(かみ)の呼(よ)び声(ごえ)に応(こた)えてまいるのです。