2017年8月6日日曜日

「その死は命に飲み込まれた」マタイによる福音書27:55-61

(しゅ)イエスが午後三時頃(ごごさんじごろ)十字架(じゅうじか)()んだ(とき)(はか)(くち)(ひら)くほどの(おお)きな地震(じしん)がありましたが、十字架(じゅうじか)につけられた(しゅ)イエスについては(なに)()こらず、一日(いちにち)()わろうとしていました。十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスは、なお十字架(じゅうじか)につけられたままです。(おお)きな地震(じしん)十字架(じゅうじか)(たお)れることもなく、十字架(じゅうじか)から()ちることもなく、そのまま、一日(いちにち)()わろうとしていました。
しかし、(かみ)さまは、一人(ひとり)(おとこ)()()がらせました。アリマタヤ出身(しゅっしん)のヨセフです。マタイによる福音書(ふくいんしょ)はこの(おとこ)金持(かねも)ちだったと()います。すでにこのヨセフも、(しゅ)イエスに弟子(でし)として()()されていました。(いま)までその(かお)(あらわ)すことはありませんでしたが、(かみ)さまはこの(とき)ヨセフを、(しゅ)イエスの弟子(でし)として()()がらせます。ヨセフはここで()()()って、一歩(いっぽ)(そと)()たのです。ヨセフは、総督(そうとく)ピラトのもとに(みず)出向(でむ)いて、(しゅ)イエスのお(からだ)()(わた)してくれるよう(たの)みます。
ヨセフはそのおからだるとあたらしいぬのつつみ、真新まあたらしいはかほうむります。ここでしゅイエスを丁重ていちょうほうむるヨセフの姿すがたに、もはやしゅイエスがのろわれた受刑者じゅけいしゃであるとか、しゅイエスのおからだけがれたものだなどという様子ようすえません。むしろ、しゅイエスが三日目みっかめ死者ししゃの中から復活ふっかつさせられたとものにとって、ヨセフのいはかみさまがしゅイエスを復活ふっかつさせる予兆よちょうとしてえます。復活ふっかつしゅイエスがひとあきらかにされたときのひかりがもうんでいるのです。

ヨセフは、(いま)だ、(しゅ)イエスを()から復活(ふっかつ)させる(かみ)さまの(こえ)()けないでいる(なか)(しゅ)イエスが()()してくださったところに()たされました。そして(いま)や、()勝利(しょうり)したこの(かた)()らせが、わたくしたちのこの()実現(じつげん)する(かみ)言葉(ことば)として(とど)けられており、()すべきわたくしたちに(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)(いのち)(はい)()んできています。(かみ)さまはわたくしたちに(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()らせ、(しゅ)イエスの()(こえ)のもと礼拝(れいはい)という(いのち)(みち)(あた)えたのです。