2017年2月26日日曜日

「王子の婚宴」マタイによる福音書22:1-14

ある王(おう)が王子(おうじ)のために婚宴(こんえん)を催(もよお)します。王(おう)は息子(むすこ)のため、婚宴(こんえん)を催(もよお)すことが喜(よろこ)びなのです。この婚宴(こんえん)に多(おお)くの者(もの)を招(まね)き、広間(ひろま)いっぱいになって、皆(みな)が王(おう)の喜(よろこ)びで満(み)たされることを王(おう)は願(ねが)います。そのために王(おう)は持(も)ちうる手(て)をすべて尽(つ)くし、食事(しょくじ)の用意(ようい)をし、婚宴(こんえん)に与(あずか)る者(もの)を招(まね)きます。主(しゅ)イエスは天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまがわたくしたちを終(お)わりの日(ひ)の婚宴(こんえん)に与らせる喜(よろこ)びを、この王(おう)の喜(よろこ)びにたとえました。
天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまはわたくしたちを御子(みこ)の婚宴(こんえん)に招(まね)きます。わたくしたちをも、喜(よろこ)びの食卓(しょくたく)に与(あずか)らせたいのです。それが神(かみ)さまの喜(よろこ)びです。預言者(よげんしゃ)イザヤは神(かみ)の民(たみ)に言(い)います。「若者(わかもの)がおとめをめとるように、あなたを再建(さいけん)される方(かた)があなたをめとり、花婿(はなむこ)が花嫁(はなよめ)を喜(よろこ)びとするように、あなたの神(かみ)はあなたを喜(よろこ)びとされる(62:5)」。主(しゅ)イエスはご自身(じしん)を花婿(はなむこ)になぞらえ(9:15)、婚宴(こんえん)の食卓(しょくたく)へとわたくしたちを導(みちび)きます。
この王子おうじの婚宴こんえん、喜よろこびの食卓しょくたくへと招まねく、天てんの父ちちなる神かみさまの声こえに新あらたに聴きくことがわたくしたちにとっても幸さいわいです。聞きいたつもりで終おわるなら、何なにを聞きいたのか不確ふたしかになりがちです。天てんの父ちちなる神かみさまは、なおこの身みに語かたりかけます。わたくしたちの名なを呼よびます。この神かみさまの喜よろこびを受うけ止とめることが大切たいせつです。主しゅイエスはこの婚宴こんえんの先取さきどりとして、ご自身じしんの食卓しょくたくを祝いわいました(26:26)。そしてこの聖餐せいさんに繰くり返かえし与あずかるよう主しゅはわたくしたちに求もとめます。

主(しゅ)イエスはこのたとえの数日(すうじつ)後(ご)、捕(と)らえられます。花婿(はなむこ)が奪(うば)い取(と)られる時(とき)がきました。主(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)で殺(ころ)されます。しかしこの御子(みこ)を父(ちち)なる神(かみ)さまは復活(ふっかつ)させ、十字架(じゅうじか)の死(し)をもってさえ、ご自身(じしん)と御子(みこ)との交(まじ)わりが絶(た)やされず一(ひと)つであることを証(あか)ししました。このご自身(じしん)の花嫁(はなよめ)として、御子(みこ)は教会(きょうかい)を建(た)ててくださいます。御子(みこ)を復活(ふっかつ)させた神(かみ)の喜(よろこ)びが全(まっと)うされる民(たみ)として、わたくしたちをご自身(じしん)の食卓(しょくたく)に迎(むか)えてくださるのです。

2017年2月19日日曜日

「隅の親石」マタイによる福音書21:33-46

天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまは御子(みこ)キリストを土台(どだい)として神(かみ)の国(くに)を建(た)てます。この神(かみ)の国(くに)に生(い)かされるべく、神(かみ)さまはわたくしたちの名(な)を呼(よ)び、キリストの体(からだ)なる教会(きょうかい)へと招(まね)きます。御父(みちち)は御(み)言葉(ことば)と御霊(みたま)とによって御子(みこ)のご支配(しはい)をわたくしたちに満(み)たします。わたくしたちはキリストを土台(どだい)とする道(みち)を備(そな)えられており、このご支配(しはい)のもと、死(し)から命(いのち)へと生(い)かされるのです。
主(しゅ)イエスは言(い)います。「家(いえ)を建(た)てる者(もの)の捨(す)てた石(いし)、これが隅(すみ)の親石(おやいし)となった(詩編118:22)」。親石(おやいし)は石(いし)造(づく)りの家(いえ)を建(た)てる要(かなめ)として欠(か)かせません。建物(たてもの)全体(ぜんたい)に、この親石(おやいし)の働(はたら)きが効(き)いています。ただ、神(かみ)さまは人々(ひとびと)が捨(す)てた石(いし)を親石(おやいし)として据(す)え、御国(みくに)を建(た)てる。主(しゅ)イエスはここにご自身(じしん)の十字架(じゅうじか)の死(し)を見(み)ます。家(いえ)を建(た)てる者(もの)たちが捨(す)てた石(いし)。しかし神(かみ)さまはそれによって神(かみ)の国(くに)を建(た)てる。十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを神(かみ)さまは復活(ふっかつ)させ、この方(かた)を隅(すみ)の親石(おやいし)としてくださいました。
教会(きょうかい)へと招(まね)かれたわたくしたちは、自分(じぶん)でそこを選(えら)んで立(た)つのかもしれません。ですが、自分(じぶん)の名(な)を呼(よ)ぶ神(かみ)さまに応(こた)えてひれ伏(ふ)し、主(しゅ)イエス・キリストのもとに立(た)たされるのが幸(さいわ)いです。もし、わたくしたちが自分(じぶん)で選(えら)んで立(た)つというのなら、選(えら)んだ自分(じぶん)の考(かんが)えこそが要(かなめ)であり、その支配(しはい)が及(およ)ぶことを第一(だいいち)としてしまいかねません。それでは神(かみ)の国(くに)は成(な)り立(た)ちません。単(たん)に自分(じぶん)の都(つ)合(ごう)の良(よ)い集団(しゅうだん)としてしまい、死(し)を越(こ)えて生(い)きることにはならないでありましょう。

この自分(じぶん)の名(な)を呼(よ)んでくださった神(かみ)のご支配(しはい)が満(み)ちることにこそ、死(し)をも打(う)ち破(やぶ)る平安(へいあん)があります。そして神(かみ)さまは主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)によって現(あらわ)した神(かみ)のご支配(しはい)を満(み)たすため教会(きょうかい)を建(た)てます。そこで教会(きょうかい)が主(しゅ)イエス・キリストのご支配(しはい)を捨(す)てるなら、神(かみ)さまは別(べつ)のところに、ご支配(しはい)が満(み)ちる教(きょう)会(かい)をお建(た)てになります。わたくしたちは、この名(な)を呼(よ)んでくださった神(かみ)に聴(き)き、据(す)えられた親(おや)石(いし)のもとに立(た)ち上(あ)がらされることを希望(きぼう)とするのです。

2017年2月12日日曜日

「いま示された救いの道」マタイによる福音書21:23-32

天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまは、ご自身(じしん)の顔(かお)の前(まえ)にわたくしたちが照(て)らされ、顔(かお)と顔(かお)とを合(あ)わせて見(み)ることを望(のぞ)みます。造(つく)られたわたくしたちが造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)の顔(かお)をいつも仰(おお)ぎ見(み)ることを、望(のぞ)んでおられるのです。幼子(おさなご)は親(おや)の膝(ひざ)の上(うえ)に座(すわ)ろう、ときょうだいで親(おや)の膝(ひざ)を奪(うば)い合(あ)います。そこが一番(いちばん)だと知(し)っているからです。わたくしたちが神(かみ)の懐(ふところ)に抱(いだ)かれるのは最(もっと)も素(す)晴(ば)らしいことです。主(しゅ)イエスは父(ちち)なる神(かみ)さまの顔(かお)の前(まえ)へとわたくしたちを招(まね)きます。
最初(さいしょ)の人(ひと)アダムは、取(と)って食(た)べるなと言われていた善悪(ぜんあく)の知識(ちしき)の木(き)から実(み)を取(と)って食(た)べました。蛇(へび)は言(い)います。「それを食(た)べると、目(め)が開(ひら)け、神(かみ)のように善悪(ぜんあく)を知(し)るものとなる」。アダムは善悪(ぜんあく)を知(し)ったかもしれません。彼(かれ)は善悪(ぜんあく)を知(し)った世界(せかい)に対(たい)し顔(かお)を持(も)ちます。しかし一方(いっぽう)でそれは神(かみ)の顔(かお)を避(さ)けることへと向(む)かいました(創世記3:8)。そのアダムを主(しゅ)なる神(かみ)さまは呼(よ)びます。「どこにいるのか」。
神殿(しんでん)で祭司(さいし)長(ちょう)や民(たみ)の長老(ちょうろう)たちが主(しゅ)イエスのもとに来(き)ました。彼(かれ)らはエルサレムの貴族(きぞく)で神殿(しんでん)の権威(けんい)です。彼(かれ)らは主(しゅ)イエスに問(と)います。何(なん)の権威(けんい)で主(しゅ)イエスが目(め)の見(み)えない人(ひと)や足(あし)の不自由(ふじゆう)な人(ひと)たちを癒(いや)すのか。主(しゅ)イエスは問(と)い返(かえ)します。ヨハネの洗礼(せんれい)は天(てん)からのものか人(ひと)からのものか。彼(かれ)らはヨハネを信(しん)じませんでした。一方(いっぽう)群衆(ぐんしゅう)はヨハネを天(てん)からの預言者(よげんしゃ)と見(み)ます。この群衆(ぐんしゅう)を恐(おそ)れる彼(かれ)らは、どちらとも言(い)えません。「わからない」と答(こた)え、神(かみ)の前(まえ)から顔(かお)を隠(かく)してしまいます。
わたくしたちは面目(めんぼく)を失(うしな)うようなところに立(た)つことを恐(おそ)れます。しかし誰(だれ)にも顔向(かおむ)けできなくなったわたくしたちに、なお立(た)つところがあります。

主(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)で死(し)にました。それは権威(けんい)なき者(もの)の証(あかし)として人(ひと)の目(め)には見(み)えました。しかし神(かみ)さまはこの御子(みこ)イエスを復活(ふっかつ)させ、死(し)を超(こ)えてこの方(かた)を神(かみ)の子(こ)としてくださいました。御子(みこ)の復活(ふっかつ)は、父(ちち)なる神(かみ)さまが死(し)を超(こ)えてわたくしたちを愛(あい)し抜(ぬ)く証(あかし)として告(つ)げられています。