2016年8月21日日曜日

「主はわたしの羊飼い」マタイによる福音書14:13-21

弟子(でし)たちは(いつ)つのパンと二匹(にひき)(さかな)しか()っていませんでした。しかし(しゅ)イエスはこれを()()ると、パンを()いて(あた)え、弟子(でし)たちは群衆(ぐんしゅう)へと(くば)ります。(おとこ)だけでも五千人(ごせんにん)()べて(まん)(ぷく)しました。(のこ)ったパンの(くず)(あつ)めると、十二(じゅうに)(かご)いっぱいになりました。
人間(にんげん)計算(けいさん)ではとても説明(せつめい)できない、理解(りかい)しがたい出来事(できごと)です。ただ、マタイによる福音書(ふくいんしょ)は、わたくしたちがこの出来事(できごと)()ることを(とお)して、これを()こしてしまわれた(しゅ)イエスが、自分(じぶん)(なに)をしてくれるとわたくしたちが(しん)じるのかを()います。つまり、この出来事(できごと)()こした(しゅ)イエスが、このように、わたくしたちをも(かみ)(くに)のご支配(しはい)()たしてくださることを(しん)じるよう(もと)めます。さらには、(かみ)(くに)のご支配(しはい)(およ)ぼすために、この弟子(でし)たちのようにして、()けたる(うつわ)()える自分(じぶん)たちをも、(しゅ)イエスが(もち)いると信頼(しんらい)するよう、マタイによる(ふく)音書(いんしょ)(もと)めるのです。


(じつ)に、このようにして(しゅ)イエスはわたくしたちを、(かみ)(くに)のご支配(しはい)へと(まね)いて()ました。そこで、わたくしたちの()()いたその(ひと)(しん)じる対象(たいしょう)であるところの(かみ)が、このわたしを(すく)うのか、どうであるのかが、真剣(しんけん)()いとしてもたらされます。そしてこの()(かた)りかける(つく)(ぬし)(こえ)()くことが、(かみ)(くに)のご支配(しはい)(とど)けられた(もの)には必要(ひつよう)です。それこそ、(たましい)()(こえ)であり、()()(やぶ)ってこの()(いつく)しむ(かみ)の、この()()()がらせる言葉(ことば)であるからです。

(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、ご自身(じしん)()らず、()んで()わりの(いのち)()てなく()きるほかないわたくしたちに、無関心(むかんしん)ではおられません。断腸(だんちょう)(おも)いをし、わたくしたちをなお(いつく)しんで()まれない。その、わたくしたちへの(おも)いが、()()()ってなおわたくしたちに(とど)けられることを、(かみ)さまは(しゅ)イエスを十字架(じゅうじか)()から復活(ふっかつ)させることにより、(あかし)してくださいました。()んだ(もの)にさえ(ひび)く、(つく)(ぬし)なる(かみ)(こえ)をここに(ひび)かせてくださったのです。