弟子たちは五つのパンと二匹の魚しか持っていませんでした。しかし主イエスはこれを受け取ると、パンを裂いて与え、弟子たちは群衆へと配ります。男だけでも五千人が食べて満腹しました。残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになりました。
人間の計算ではとても説明できない、理解しがたい出来事です。ただ、マタイによる福音書は、わたくしたちがこの出来事を知ることを通して、これを起こしてしまわれた主イエスが、自分に何をしてくれるとわたくしたちが信じるのかを問います。つまり、この出来事を起こした主イエスが、このように、わたくしたちをも神の国のご支配で満たしてくださることを信じるよう求めます。さらには、神の国のご支配を及ぼすために、この弟子たちのようにして、欠けたる器と見える自分たちをも、主イエスが用いると信頼するよう、マタイによる福音書は求めるのです。
実に、このようにして主イエスはわたくしたちを、神の国のご支配へと招いて来ました。そこで、わたくしたちの手を引いたその人が信じる対象であるところの神が、このわたしを救うのか、どうであるのかが、真剣な問いとしてもたらされます。そしてこの身に語りかける造り主の声を聞くことが、神の国のご支配を届けられた者には必要です。それこそ、魂が乞う声であり、死を打ち破ってこの身を慈しむ神の、この身を立ち上がらせる言葉であるからです。
造り主なる神さまは、ご自身を知らず、死んで終わりの命を当てなく生きるほかないわたくしたちに、無関心ではおられません。断腸の思いをし、わたくしたちをなお慈しんで止まれない。その、わたくしたちへの思いが、死に打ち勝ってなおわたくしたちに届けられることを、神さまは主イエスを十字架の死から復活させることにより、証してくださいました。死んだ者にさえ響く、造り主なる神の声をここに響かせてくださったのです。