2015年12月13日日曜日

「慈しみはとこしえに」マタイによる福音書6:9-15


わたくしたちが(ゆる)すということと、神さまがわたくしたちを(ゆる)すということとは、表裏(ひょうり)一体(いったい)です。そして、(さき)()って(かみ)さまが、(しゅ)イエス・キリストの(じゅう)()()()によってわたくしたちの(つみ)(ゆる)してくださいました。先立(さきだ)ってわたくしたちを(あわ)れみ、(いつく)しみ、ご自身(じしん)(おも)いとわたくしたちを一つにしよう、とわたくしたちを(むか)える、(てん)(ちち)なる(かみ)さまがおられます。
(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、復活(ふっかつ)(しゅ)(いのち)によってわたくしたちの将来(しょうらい)を、()()えて(ひら)きます。一方(いっぽう)、わたくしたちが(ひと)(たい)しても自分(じぶん)(たい)しても(ゆる)さないでいることは、自分(じぶん)をも相手(あいて)をも、その()()(しょう)じた過去(かこ)へと埋没(まいぼつ)させます。
この「(ゆる)さない(つみ)」が(みじ)めであるのは、()にゆく自分(じぶん)とも和解(わかい)()ないことからも(わか)ります。たとえ自分(じぶん)で、()にゆく自分(じぶん)肯定(こうてい)してみたとしても、()をこえてわたくしたちを支配(しはい)する(かみ)さまと和解(わかい)したことになりません。(みずか)らの()(まえ)()(つく)くし、どうにもできないでいる、そのわたくしたちへと、しかし(しゅ)イエスは()られます。
(かみ)さまとの和解(わかい)は、(なに)口先(くちさき)のもの、表面的(ひょうめんてき)問題(もんだい)ではありません。それではわたくしたちは絶望(ぜつぼう)から()()がることなどできません。むしろ(かみ)(ゆる)され和解(わかい)させられることは、わたくしたちの(せい)根本(こんぽん)問題(もんだい)です。わたくしたちの(いのち)根本(こんぽん)から(かみ)和解(わかい)させられるかどうか、という()いです。
そしてこの()いに、「(しか)り、そうだ」という、(かみ)との和解(わかい)宣言(せんげん)を、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()げます。それは、自分(じぶん)のこの(いのち)との和解(わかい)(あた)えられることです。わたくしたちの(せい)根本(こんぽん)から自分(じぶん)和解(わかい)するということです。自分(じぶん)(ゆる)すということです。
この(いのち)(つく)った(かみ)()(まえ)から、()まれて今日(こんにち)(いた)るまで、そして()()えてとこしえに(すべ)てこの自分(じぶん)を、(かみ)(まえ)に「()し」とする、(しゅ)イエス・キリストがおられます。わたくしたちもこの(かた)へと(みずか)らをお(ささ)げし、やって()られた(しゅ)をお(むか)えいたしましょう。