わたくしたちが赦すということと、神さまがわたくしたちを赦すということとは、表裏一体です。そして、先立って神さまが、主イエス・キリストの十字架の死によってわたくしたちの罪を赦してくださいました。先立ってわたくしたちを憐れみ、慈しみ、ご自身の思いとわたくしたちを一つにしよう、とわたくしたちを迎える、天の父なる神さまがおられます。
天の父なる神さまは、復活の主の命によってわたくしたちの将来を、死を越えて開きます。一方、わたくしたちが人に対しても自分に対しても赦さないでいることは、自分をも相手をも、その負い目が生じた過去へと埋没させます。
この「赦さない罪」が惨めであるのは、死にゆく自分とも和解し得ないことからも判ります。たとえ自分で、死にゆく自分を肯定してみたとしても、死をこえてわたくしたちを支配する神さまと和解したことになりません。自らの死を前に立ち尽くし、どうにもできないでいる、そのわたくしたちへと、しかし主イエスは来られます。
神さまとの和解は、何か口先のもの、表面的な問題ではありません。それではわたくしたちは絶望から立ち上がることなどできません。むしろ神に赦され和解させられることは、わたくしたちの生の根本の問題です。わたくしたちの命の根本から神と和解させられるかどうか、という問いです。
そしてこの問いに、「然り、そうだ」という、神との和解の宣言を、主イエスの復活は告げます。それは、自分のこの命との和解を与えられることです。わたくしたちの生の根本から自分と和解するということです。自分を赦すということです。
この命を造った神を知る前から、生まれて今日に至るまで、そして死を越えてとこしえに全てこの自分を、神の前に「良し」とする、主イエス・キリストがおられます。わたくしたちもこの方へと自らをお献げし、やって来られた主をお迎えいたしましょう。