主イエスがわたくしたちの王として即位するということは、すなわち、わたくしたちが自分の王として立つ場を失う、ということです。失脚するということです。わたくしたちは、新しい王の誕生が告げられても、それが自分の地位、立場を失うことであり、滅んで終わることを意味するなら、そのような知らせの前に、面と向かって立ってゆくことはできません。
しかし、わたくしたちが失脚しても、死からわたくしたちを復活させる方がこの身の王となって、とこしえにこの身を立ち上がらせてくれるのなら、この誕生の知らせの前に立つことができます。自分にとって失脚の知らせでありながら、なお、この王に向かって「よろしくお願いします」と自分を献げ、立つことを得ます。
主イエス・キリストがわたくしたちのとこしえの王としてやってきました。この王は神の民の牧者として、死を越えてとこしえの命へとわたくしたちを導きます。この方は死の先に、とこしえの命を備えているのです。とこしえの王のもとにある命にわたくしたちを生かすべく、主イエス・キリストはわたくしたちの王としてやってきました。わたくしたちのこの身の失脚は、この方のもとにあっては命の始まりであるのです。
主イエスの十字架の死からの復活は、この、わたくしたちの命の始まりを意味します。主イエスの復活は、この方がわたくしたちの王として、ご自身の復活の命をこの身に起こすことを約束します。この王の前にひれ伏し、死を越える命へとこの身を献げる道を、天の父なる神さまはわたくしたちに備えました。この喜びを占星術の学者たちは頂いて、大いに喜びました。たとえ、自分が失脚しても、主イエスがこの身の王として、とこしえにわたくしたちが生きる責任を担います。この王のもと、備えられた道を、わたくしたちも「よろしくお願いします」とこの身をお献げして迎えるのです。