2015年12月20日日曜日

「とこしえの王の到来」マタイによる福音書2:1-12


主(しゅ)イエスがわたくしたちの王(おう)として即位(そくい)するということは、すなわち、わたくしたちが自分(じぶん)の王(おう)として立(た)つ場(ば)を失(うしな)う、ということです。失脚(しっきゃく)するということです。わたくしたちは、新(あたら)しい王(おう)の誕生(たんじょう)が告(つ)げられても、それが自分(じぶん)の地位(ちい)、立場(たちば)を失(うしな)うことであり、滅(ほろ)んで終(お)わることを意味(いみ)するなら、そのような知(し)らせの前(まえ)に、面(めん)と向(む)かって立(た)ってゆくことはできません。
しかし、わたくしたちが失脚(しっきゃく)しても、死(し)からわたくしたちを復活(ふっかつ)させる方(かた)がこの身(み)の王(おう)となって、とこしえにこの身(み)を立(た)ち上(あ)がらせてくれるのなら、この誕生(たんじょう)の知(し)らせの前(まえ)に立(た)つことができます。自分(じぶん)にとって失脚(しっきゃく)の知(し)らせでありながら、なお、この王(おう)に向(む)かって「よろしくお願(ねが)いします」と自分(じぶん)を献(ささ)げ、立(た)つことを得(え)ます。
主(しゅ)イエス・キリストがわたくしたちのとこしえの王(おう)としてやってきました。この王(おう)は神(かみ)の民(たみ)の牧者(ぼくしゃ)として、死(し)を越(こ)えてとこしえの命(いのち)へとわたくしたちを導(みちび)きます。この方(かた)は死(し)の先(さき)に、とこしえの命(いのち)を備(そな)えているのです。とこしえの王(おう)のもとにある命(いのち)にわたくしたちを生(い)かすべく、主(しゅ)イエス・キリストはわたくしたちの王(おう)としてやってきました。わたくしたちのこの身(み)の失脚(しっきゃく)は、この方(かた)のもとにあっては命(いのち)の始(はじ)まりであるのです。
主(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)の死(し)からの復活(ふっかつ)は、この、わたくしたちの命(いのち)の始(はじ)まりを意味(いみ)します。主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)は、この方(かた)がわたくしたちの王(おう)として、ご自身(じしん)の復活(ふっかつ)の命(いのち)をこの身(み)に起(お)こすことを約束(やくそく)します。この王(おう)の前(まえ)にひれ伏(ふ)し、死(し)を越(こ)える命(いのち)へとこの身(み)を献(ささ)げる道(みち)を、天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまはわたくしたちに備えました。この喜(よろこ)びを占星術(せんせいじゅつ)の学者(がくしゃ)たちは頂(いただ)いて、大(おお)いに喜(よろこ)びました。たとえ、自分(じぶん)が失脚(しっきゃく)しても、主(しゅ)イエスがこの身(み)の王(おう)として、とこしえにわたくしたちが生(い)きる責(せき)任(にん)を担(にな)います。この王(おう)のもと、備(そな)えられた道(みち)を、わたくしたちも「よろしくお願(ねが)いします」とこの身(み)をお献(ささ)げして迎(むか)えるのです。