2015年10月18日日曜日

「神の然りを然りとする」マタイによる福音書5:33-37


「あなたがたは、『然(しか)り、然(しか)り』『否(いな)、否(いな)』と言(い)いなさい」。語(かた)る言葉(ことば)に二心(ふたごころ)なく、真実(しんじつ)を貫(つらぬ)くよう主(しゅ)イエスは命(めい)じます。神(かみ)さまの然(しか)りを然(しか)りとし、神(かみ)さまの否(いな)を否(いな)とするよう命(めい)じます。
わたくしたちがいくら誓(ちか)っても、神(かみ)さまが然(しか)りとした将来(しょうらい)を、否(いな)に変(か)えることはできません。その反対(はんたい)もそうです。わたくしたちの将来(しょうらい)は、わたくしたちの命(いのち)の造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまの手(て)にかかっている。その神(かみ)の然(しか)りを、然(しか)りとするよう、主(しゅ)イエスは求(もと)めます。
主(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)に掛(か)けられ、死(し)んでゆかれました。それは、神(かみ)を求(もと)めながらも、神(かみ)共(とも)にいますという真実(しんじつ)を受(う)け止(と)めず、神(かみ)不在(ふざい)の世(よ)を生(い)きる人間(にんげん)の手(て)によって突(つ)き付(つ)けられた否(いな)でした。
けれども神(かみ)さまは、この主(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させました。神(かみ)さまは、神(かみ)共(とも)にいますという真実(しんじつ)が、死(し)を越(こ)えて真実(しんじつ)であり、人間(にんげん)の手(て)によっても死(し)においても否(いな)とされ得(え)ないことを、証(あか)ししてくださったのです。
神(かみ)さまが、わたくしたちに起(お)こされる然(しか)りを現(あらわ)してくださいました。もはや神(かみ)さまはわたくしたちの命(いのち)が死(し)んで終(おわ)わることに対し、否(いな)を突(つ)き付(つ)け、わたくしたちが死者(ししゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させられる然(しか)りを、動(うご)かざる然(しか)りとして宣言(せんげん)してくださいました。
なにか「建前(たてまえ)は然(しか)りだけど、本音(ほんね)は否(いな)です」などということはありません。神(かみ)さまの然(しか)りは、どこまでも然(しか)りであられます。だから、この神(かみ)さまの然(しか)りを、あなたの然(しか)りとするよう、主(しゅ)イエスはわたくしたちに求(もと)めます。
じつに、わたくしたちが洗礼(せんれい)を受(う)け、信仰(しんこう)を告白(こくはく)することは、この神(かみ)の然(しか)りをこの身(み)の然(しか)りとして受(う)け止(と)めさせて頂(いただ)くことです。また聖餐(せいさん)に与(あずか)り、くり返(かえ)し、この神(かみ)の然(しか)りをこの身(み)の然(しか)りとして、確認(かくにん)させて頂(いただ)くのです。
それは何(なに)か自分(じぶん)でつかみ取(と)るというよりも、神(かみ)さまが主(しゅ)イエスにおいて、もうこの身(み)に差(さ)し出(だ)してくださった永遠(えいえん)の命(いのち)を、ただで頂(いただ)くことです。神(かみ)の然(しか)りを確(たし)かに聞(き)き、しっかりと受(う)け取(と)らせて頂(いただ)きましょう。