わたくしたちがいくら誓っても、神さまが然りとした将来を、否に変えることはできません。その反対もそうです。わたくしたちの将来は、わたくしたちの命の造り主なる神さまの手にかかっている。その神の然りを、然りとするよう、主イエスは求めます。
主イエスは十字架に掛けられ、死んでゆかれました。それは、神を求めながらも、神共にいますという真実を受け止めず、神不在の世を生きる人間の手によって突き付けられた否でした。
けれども神さまは、この主イエスを死者の中から復活させました。神さまは、神共にいますという真実が、死を越えて真実であり、人間の手によっても死においても否とされ得ないことを、証ししてくださったのです。
神さまが、わたくしたちに起こされる然りを現してくださいました。もはや神さまはわたくしたちの命が死んで終わることに対し、否を突き付け、わたくしたちが死者の中から復活させられる然りを、動かざる然りとして宣言してくださいました。
なにか「建前は然りだけど、本音は否です」などということはありません。神さまの然りは、どこまでも然りであられます。だから、この神さまの然りを、あなたの然りとするよう、主イエスはわたくしたちに求めます。
じつに、わたくしたちが洗礼を受け、信仰を告白することは、この神の然りをこの身の然りとして受け止めさせて頂くことです。また聖餐に与り、くり返し、この神の然りをこの身の然りとして、確認させて頂くのです。
それは何か自分でつかみ取るというよりも、神さまが主イエスにおいて、もうこの身に差し出してくださった永遠の命を、ただで頂くことです。神の然りを確かに聞き、しっかりと受け取らせて頂きましょう。