2014年12月7日日曜日

「神からいただいた恵み」ルカによる福音書 1:26-38

「こんなはずではなかったのに」。自分が思い描いていたのとは全く異なる状況に陥ってしまい、マリアのそばにいた者たちは、そうつぶやいて立ちすくんだかもしれません。当のマリアも御使いの言葉に戸惑い、考え込みました。けれどもマリアは、それで終わりませんでした。立ちすくんでしまうような中で、立ち上がるところを与えられたからです。

マリアは、「主があなたと共におられる」という約束のもと、立ち上がらせられました。それはこのときばかりではありません。宿した子を産むに至るまでも、繰り返し自らを問われ、神に問い、この約束にすがりました。最愛のわが子を十字架で失ったときも、神からのこの約束がただ一つの希望であったにちがいありません。

何かマリアが特別な才能を持っていたから、御使いのお告げを聞いて素直にそれに従えたというのではなく、むしろマリアは何も持たないおとめでした。また、いいなずけのいる未婚のおとめが神の子を懐胎したと公言するなら、石で打たれてもおかしくありませんでした。マリアは立つところを全く失うのです。

そのマリアに、神さまは立つところを与えてくださいました。「主があなたと共におられる」という約束がこの身に成ることへと立ち上がらせられました。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言います。立ちすくんでしまいそうになる中で、何度もこの言葉を口にしたことでしょう。そのマリアと共に主がおられました。

自分の思いとは別に、周りの状況が進んでいく。しかもそれがどこへ向かっているのか、見えないでいる。不確かな立場におかれる中で、もし確かな道があるのなら、わたくしたちはそこを進みたいと願うでしょう。「主があなたと共におられる」は、「主があなたを知っておられる」という約束でもあります。わたくしたちが不確かでも、主は知っておられる。この主は、わたくしたちの命の造り主です。

「あなたはわたしの自慢の子、わたしの誇りだ」と造り主なる神さまがわたくしたちを御覧になり、御手の中を歩ませておられます。どれだけ自分が不確かな歩みをしているように思えても、造り主の変わらぬ意志の下にわたくしたちは守られ、神が召し出した道を歩む者とされているのです。その道を共に歩んでくださる主イエス・キリストがおられます。十字架の死から復活させられ、死を越えて共におられるこの方が、神からの恵みとしてわたくしたちに差し出されているのです。