2014年11月2日日曜日

「わたしたちに現される栄光」ローマの信徒への手紙 8:18-25

わたくしたちは苦しみにあったとき、その原因が知りたくなります。お腹が痛くなったら、あのとき食べた食べ物だろうか、お腹が冷えたからだろうかと思い巡らします。災いにあったら、何か自分が悪いことをしたからではないかと勘ぐることさえあります。いずれにしても、原因のない苦しみなど受け入れ難いですし、何かその原因を突き止めることができればそれだけでも、その苦しみを受け入れられたように思います。

そうやって、わたくしたちは苦しみにあったとき、過去にさかのぼって原因を探求します。しかしそのわたくしたちに聖書は語り掛け、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と、わたくしたちを将来の目的へと引き上げます。

たとえわたくしたちが苦しみの中にあったとしても、さらには、苦しみのうちに死んでしまったとしても、なおわたくしたちに現されるべき栄光が備えられている。その希望ある将来へとわたくしたちが向かわしめられているというのです。その根拠として聖書は主イエス・キリストが十字架の死から復活させられたという、神の栄光を証します。

死んで終わる生というのは、虚無に向かって生きることです。生きる目的が虚無だというのなら、そこでわたくしたちは生きる意味も失いかねません。そのような生をわたくしたちは生きられませんし、死を受け入れることは困難です。聖書は、この虚無に服する苦しみをわたくしたちが負って生きてきたと指摘します。そして死で終わる生という、滅びに隷属する他なかったわたくしたちが、しかしその滅びを打ち破られ、神の子とされて復活する日を迎えることを約束します。

なにか、苦しみがなくなるというのではありません。苦しみから逃れて、希望が与えられるのではないのです。むしろ苦しみの中で、希望へと向かう道が備えられた。それが主イエス・キリストの十字架の死と死からの復活がわたくしたちに証しする、わたくしたちに備えられた栄光の道です。

栄光を与えられる将来がキリストによってわたくしたちに約束されています。そのわたくしたちにとって、今ある苦しみは、意味のないものではありません。この苦しみもこれまでの歩みも、すべてが、栄光を与えられる日のためにキリストが備えてくださった道の途上にあった。聖書はその将来の希望へとわたくしたちを引き上げ、なお苦しみの中にあっても栄光の日を待ち望ませているのです。