2014年11月9日日曜日

「主はわたしの牧者」ヨハネによる福音書 10:1-6

「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください(民数記27:16)」。そうモーセは神さまに祈りました。飼う者のいない羊は生きて行けません。目があまり見えないので、自分だけでは生きられないのです。群に寄り添う他ありません。その群も、荒れ野の中、飼う者なくしては草原へ行くことも、水場へ行くこともできません。まことの羊飼いのもとでなければ、そこへとたどり着かないのです。

わたくしたちには導き手が必要です。導く者の声を聞き、従って歩みたいのです。指導者モーセは自らの生涯を終える前に、後継者ヨシュアを任命します。モーセは約束の地に入ることができません。そして約束の地に民が入るために、導き手としてヨシュアを任命して、彼に委ねるのです。その関係をモーセは羊飼いと羊の関係になぞらえて祈りました。

主はわたしの牧者である。そう告白できるところに、神さまを自分の主と信じる幸いがあります。けれどもわたくしたちは、牧者であるこの方の声が聞こえないというときがあります。主がわたしの牧者であるはずなのに、その声が聞こえない。周りの人は聞いているのかもしれません。しかし自分には聞こえないのです。周りの人はどんどん先へ行き、自分だけ取り残される。周りへの単なる追従は、やがてまた渇きます。誰かに届けられた声というのではなく、このわたしに声が届けられることが必要なのです。そこで求められているのは「わたしとあなた」という二人称の関係です。わたしの存在が問題となっているのです。このわたしの名を呼ぶ声が。

主イエスはご自身を羊飼いにたとえ、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言います。「あなたはわたしが牧する羊」とわたくしたちの名を呼んで、わたくしたちがこの方を主とする関係に、入らせるのです。この方がわたくしたちの存在をかけて生きられる相手であることを、わたくしたちの存在を存在たらしめる神であることを、天の父なる神さまは十字架で死んだこの御子を死者の中から復活させてわたくしたちに明らかにしてくださいました。キリストの復活は、この方が天からの御方であることのしるしです。門は開かれました。自分の名を呼ばれ、存在をかけて生きる相手を見出したとき、わたくしたちは希望をもって歩むことができるのです。