2014年10月19日日曜日

「神の業が現れるため」ヨハネによる福音書 9:1-12

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちはそう主イエスに尋ねました。本人を目の前にして、何ともぶしつけな質問をしたものだ、と聞こえてまいります。ただ、わたくしたちも、自らの生まれながらの問題に直面した時に、真剣に自分にそう問うことがあるのではないでしょうか。

今自分がこうあるのは、また、生まれながら自分がこうあるのは、何か自分に問題があったからではないか。わが子が生まれながらこうあるのは、親である自分に問題があったのではないだろうか。原因を過去の自分に問い、ときに自分を責めることまでしてしまいます。

主イエスは答えます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。主イエスは、この生まれつき目が見えない人は、何か本人が罪を犯したからそうなっているのではない、と否定します。また、この人の両親が罪を犯したからそうなったのでもない、と否定します。罪とは神さまに背き、神さまを見ないで、神さまなしで生きてゆこうとすることです。その結果として神さまがこの人を目が見えないように誕生させたのか。そうではない。誰かの罪の結果によって、この人は生まれつき目が見えないのではない、と言うのです。そしてむしろ「神の業がこの人に現れるため」と言い、過去へと原因を捜し求める者の目を、「神の業が現れる」という将来の目的へと向かって開きます。

言い換えますならばそれは、将来に原因がある、ということです。しかもその将来が、死で終わる、無に帰するだけの将来ではなく、死を越えて永遠の命に生かされる将来であるならば、その将来を原因とする今の生は希望へと向かうのであり、これまで歩んできた生まれながらの道のりもまた、その希望へと向かうものであったということになります。

この、将来の希望へと生の転換をもたらすために、天の父なる神さまは御子イエスをご自身のもとから遣わされました。主イエスはその生涯を通してこの神の業に仕え、十字架の死をもって、仕え尽くされました。そしてこの主イエスを父なる神さまは死者の中から復活させることによって、死を越えて永遠の命に生きる将来がわたくしたちに備えられていることを、決定的に示してくださいました。その神さまは、今や教会を通して、わたくしたちに御霊を注いで、将来の希望へと歩む生を与えておられます。