2014年10月12日日曜日

「独り子を差し出した神」ヨハネによる福音書 8:48-59

神さまはアブラハムに命じました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい(創世記22:2)」。待ちに待って与えられた独り子イサクを、神さまは犠牲としてささげるよう命じたのです。神さまに従うアブラハムは、独り子イサクを神さまの命じられた所へ連れ、築いた祭壇の上、薪の上に彼を縛って横たえます。

アブラハムが刃物をとってイサクを屠ろうとしたその時、神さまはアブラハムに呼び掛けました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。

アブラハムが目を上げて見ると、背後の茂みに子羊が角をとられているのを見つけます。彼はイサクの代わりにこの子羊を焼き尽くす献げ物として神さまにささげ、その場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けました。

アブラハムが見させて頂いたのは、万事を益とするために今もなお働いておられる、主なる神さまの摂理です。わたくしたちの思いを越えて、主はわたくしたちを良きところへと導いてくださる。そのご計画を、神さまはその独り子をさえお与えになって実現させられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)」。ここに言い表された摂理のもと、主イエスはわたくしたちを生かします。

わたくしたちにはどうにもできない現実があります。病もその一つです。そこに道が閉ざされているなら、現実に向き合うのはとても困難です。けれども、このわたくしたちの命の造り主である神が、なお道を備えているのであれば。すべてわたくしたちを支配する諸々の力を越えて、万事を益としてくださる神の支配(平安)へと道が備えられているのであれば、わたくしたちも神さまに従って、その道を行かせて頂きたいと願わないでしょうか。死を越えてわたくしたちに永遠の命を得させるために、わたくしたちの救い主として、主イエス・キリストは十字架の死から復活させられました。この主イエスにおいて、神さまが予め見ておられる、わたくしたちのために備えられた命の道があります。主イエスに従い、わたくしたちもその道を共々に進ませて頂くのです。