主イエスは従う者たちの病を癒して差し上げましたが、ご自分のことを言いふらさないよう戒めました。マタイによる福音書は、主イエスが人々に沈黙を命じながらも、ご自分の民を罪から救う主イエスの働きが、ひそやかに、しかし全ての民へと向かって始められたことを証します。神さまの働きは、わたくしたち人間の目には見ることができなかったとしても、まことにひそやかに進められていると言うのです。
この神さまが、十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させました。この主イエスによってわたくしたちもまた死から復活させられる日が来ることを、神さまは約束しておられます。この約束は、未だわたくしたちの目に実現を見ることを得ませんが、しかしなお、この身に全うする日へと向かって進められています。それはまことにひそやかに進められる、神の約束だということができます。
わたくしたちの命が、母の胎でひそやかに始められたように、未だわたくしたちが見もしない、知りもしないその前に、造り主なる神さまは、わたくしたちのこの身に実現する救いの業を始めておられます。新しい命を始めておられます。わたくしたちは信仰を与えられることにより、この神さまが備えた道を知らぬ間に進ませて頂いて来たことを、知るのです。
さらには、未だわたくしたちが見もしない、知りもしない自分の内にも、神さまは主イエスにおいて約束した救いの実現へとその働きを始めています。たとえわたくしたちが病を癒されなくても、また、神さまとの関係が前進しているように見えなかったとしても、神さまはその時にも約束の実現へと進めているのです。
わたくしたちは、主イエスの十字架の死と死からの復活に根を据えられ、新しい命を生かされます。病が癒されなくても、主イエスと共に十字架を負い、復活の希望へと向かって、そこに寄りすがることができるのです。