2016年6月12日日曜日

「新しい命の始まり」マタイによる福音書 12:15-21

主(しゅ)イエスは従(したが)う者(もの)たちの病(やまい)を癒(いや)して差(さ)し上(あ)げましたが、ご自分(じぶん)のことを言(い)いふらさないよう戒(いまし)めました。マタイによる福音書(ふくいんしょ)は、主(しゅ)イエスが人々(ひとびと)に沈黙(ちんもく)を命(めい)じながらも、ご自分(じぶん)の民(たみ)を罪(つみ)から救(すく)う主(しゅ)イエスの働(はたら)きが、ひそやかに、しかし全(すべ)ての民(たみ)へと向(む)かって始(はじ)められたことを証(あかし)します。神(かみ)さまの働(はたら)きは、わたくしたち人間(にんげん)の目(め)には見(み)ることができなかったとしても、まことにひそやかに進(すす)められていると言(い)うのです。
この神(かみ)さまが、十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させました。この主(しゅ)イエスによってわたくしたちもまた死(し)から復活(ふっかつ)させられる日(ひ)が来(く)ることを、神(かみ)さまは約束(やくそく)しておられます。この約束(やくそく)は、未(いま)だわたくしたちの目(め)に実現(じつげん)を見(み)ることを得(え)ませんが、しかしなお、この身(み)に全(まっと)うする日(ひ)へと向(む)かって進(すす)められています。それはまことにひそやかに進(すす)められる、神(かみ)の約(やく)束(そく)だということができます。


わたくしたちの命(いのち)が、母(はは)の胎(たい)でひそやかに始(はじ)められたように、未(いま)だわたくしたちが見(み)もしない、知(し)りもしないその前(まえ)に、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまは、わたくしたちのこの身(み)に実現(じつげん)する救(すく)いの業(わざ)を始(はじ)めておられます。新(あたら)しい命(いのち)を始(はじ)めておられます。わたくしたちは信(しん)仰(こう)を与(あた)えられることにより、この神(かみ)さまが備(そな)えた道(みち)を知(し)らぬ間(ま)に進(すす)ませて頂(いただ)いて来(き)たことを、知(し)るのです。
さらには、未(いま)だわたくしたちが見(み)もしない、知(し)りもしない自分(じぶん)の内(うち)にも、神(かみ)さまは主(しゅ)イエスにおいて約束(やくそく)した救(すく)いの実現(じつげん)へとその働(はたら)きを始(はじ)めています。たとえわたくしたちが病(やまい)を癒(いや)されなくても、また、神(かみ)さまとの関係(かんけい)が前進(ぜんしん)しているように見(み)えなかったとしても、神(かみ)さまはその時(とき)にも約束(やくそく)の実現(じつげん)へと進(すす)めているのです。

わたくしたちは、主(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)の死(し)と死(し)からの復活(ふっかつ)に根(ね)を据(す)えられ、新(あたら)しい命(いのち)を生(い)かされます。病(やまい)が癒(いや)されなくても、主(しゅ)イエスと共(とも)に十字架(じゅうじか)を負(お)い、復活(ふっかつ)の希望(きぼう)へと向(む)かって、そこに寄(よ)りすがることができるのです。